2025年2月24日月曜日

【酒米】酒系3号~改良雄町~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

系統名
 『酒系3号』
品種名
 『改良雄町』
育成年
 『昭和34年 島根県農事試験場赤名分場』
交配組合せ
 『比婆雄町(早生雄町)×近畿33号』
主要生産地
 『島根県、広島県』
分類
 『酒米』

ん~?私か?改良雄町だよ




どんな娘?

改良八反流とは同期で五百万石やコシヒカリとほぼ同世代のかなりの古参品種。
親の関係や育ちなどで改良八反流を姉のように慕っている。(同い年ではあるが、本場出身の改良八反流を人間でいう本家、自分を分家のように感じている模様)
常に飄々とした表情のままで冗談交じりの発言をすることが多く、見た目は雄町に似ている。

ただし雄町と違って協調性はあり、あくまでも相手のペースを尊重するスタイル。
そのため、後輩たち(と言ってもその数自体少ないが)も安心して相談に来るが、ベタベタと慕われるわけでもなく、彼女自身がさらっと流している感がある。
育成当初に見た目で散々苦労した過去が影響しているのではないかと思われる。(今では克服した模様)
普段は穏やかで物腰も柔らかいが、時折核心を突く言葉を放ち、相手の考えを大きく変えることもある。


概要

島根県の酒米品種で、平成も生産量は100tに届きませんが、細く長く生産されている印象です。
「晩生の雄町を改良した」といった誤った解説も一部見られますが、育成開始時に島根県内で既に普及していた早生(当時、現代基準で中生?)品種の『早生雄町(比婆雄町)』を改良したものです。
実際育成時『早生雄町』と比較しての相違点は「収量がきわめて多い」ことで、熟期や耐倒伏性、いもち病耐性も同程度とされています。(いもち病耐性は一応「同程度か強」判定)


島根県のほかに昭和37年から広島県でも栽培されていますが、なぜか広島県の『改良雄町』だけは、「雄町」の名称で産地品種銘柄に登録されているために、国の統計でも広島県産だけは『雄町2号』に含まれて生産量等が計上されています。(詳細は後述)

稲品種データベースに記載されている『改良雄町』の作付け面積もおそらく島根県産だけのものとおもわれますが…以下そのつもりで
昭和35年の当初年は191haの作付けでスタートし、広島県で奨励品種に採用された翌年の昭和39年が最大普及面積の987haに達します。
これが昭和40年から明確に減少に転じ、昭和49年に100haを切り、暫時減少していきました。
昭和61年頃から30ha前後で安定しますが、これも平成11年頃から20ha前後まで減少。
平成後期~令和初期は生産量60t前後で移行していますので、作付面積は12ha強と推測されます。
ちなみに令和5年産で「広島県産雄町」は94t生産されているので、こちらは20ha弱程度生産されている可能性はあります。


島根県における中生品種で、稈長は93cm、穂長は19.9cmの穂数型。
育成当初は『改良八反流』が倒伏「やや易」とされていたのに対して、『改良雄町』は稈が強く「やや難」とされていますが、令和現在の基準では耐倒伏性は「弱」です。
いもち病抵抗性は「中」で、強い部類には入りません。
千粒重は25.8g程度で心白発現率は90%前後となっており、母親の『早生雄町(比婆雄町)』が千粒重26g台、心白発現率40%弱(広島農試データ)だったことを考えると、かなり改善しています。
でもこれが主食用品種の父親譲りとも考えにくいので、島根県の『早生雄町(比婆雄町)』自体が元の広島県の『比婆雄町』とはまた違った選抜を経ていたのかもしれません。

なぜか広島県では「雄町」扱い

島根県が交雑育種によって育成した『改良雄町』ですが、なぜか広島県では産地品種銘柄の醸造用玄米としては「雄町」の名称で登録されている事は前述したとおりで、一部蔵は「広島雄町」のような名称で販売している模様です。

酒米ハンドブックでも紹介されていることなので知っている人もそこそこいると思われますが、日本酒界隈お決まりの酒米ガバ知識(なのか実際別に根拠があるのか不明ですが)で「広島雄町」という地域固有種があるかのように謳っていることもあるようで…
というかこれ自体が「短稈渡船を復活しましたw」みたいないつもの日本酒業界の思い込みとお気持ち表明なんじゃないかと疑っていたんですが、調べてみると以下のように広島農試は明確に『改良雄町』と認識している様子。

〇広島県立農業試験場の昭和36年度業務年報には『改良雄町』の採用理由が記載。
〇平成17年(2005年)の広島県立農業技術センター研究報告「酒造好適米に関する県内酒造メーカーの意識調査」でも『改良雄町(広島雄町)』として「現在の酒米奨励品種の中で唯一他県育成品種」と記載
〇広島県庁が公表している「水稲栽培基準」等では奨励品種として『改良雄町』が記載(『雄町』「広島雄町」は未記載)


統計(産地品種銘柄)上は「雄町」、でも実際は『改良雄町』と実にヘンテコなことをしています。
ただしこれは、広島県で『改良雄町』が採用された直後昭和36~41年に食糧庁企画課がとりまとめた「米穀の品種別作付状況」の中ですら、広島県では「雄町」の作付け面積集計しか記載されていませんでした。
おそらく従来栽培されていた『比婆雄町』『舟木雄町』と区別せずに広島県が集計していたと思われ、この慣習が現代まで続いているのではないでしょうか。
『改良雄町』に比して稈が長く、熟期も遅く、いもち病やニカメイチュウの被害が大きく栽培が減っていた上記品種の代替にと採用されたわけですが、当初のそういった経緯が忘れ去られて、「改良雄町は雄町扱いにする」という習慣だけ残ったというのはあり得そうです。

なお、ホンモノの『広島雄町』も存在する

これが現存しているかはわかりませんし、広島県の「広島雄町」は上記のように広島農試の扱いが『改良雄町』であることから、これを復活させて栽培させている可能性は限りなく低いものだと思いますが…広島県にはちゃんと正式な『広島雄町』が存在しました。

大正15年から広島県立農事試験場で岡山県産『雄町』の中から純系分離開始。
昭和8年から奨励品種に採用された晩生品種。
最大作付面積は昭和13年で、4,109町歩でしたが、昭和18年に奨励品種から廃止されています。(この廃止はおそらく太平洋戦争による食糧事情の悪化により、収量性のより良い品種へに切り替えに迫られたものと推測します。)

と、以上のような情報が五十年史には記載があったのですが、私は広島農試の業務功程でこの純系分離の情報を見つけられていません。(そんなに真面目に探してはいない)
ただ育成経過は兎も角、広島県で上記の期間に『広島雄町』が奨励されていたことは間違いありません。


育種経過

『改良雄町』は主に酒米品種の栽培試験等を行っていた島根県農事試験場赤名分場で『早生雄町(比婆雄町)』と『近畿33号』の交配後代から育成されました。


早速ですが、『改良雄町』の育成開始年と思われる昭和26年(1951年)どころか昭和28年(1953年)まで、「雄町」関係の酒米育種の情報が、島根農試の業務報告に記載されていません。(あるある)
なお、他県の記録になりますが、広島県立農業試験場の昭和36年度業務年報では『改良雄町』は「昭和27年交配、昭和36年度で雑種第9代」との記載がありますが、以下あくまでも島根県農試の業務報告を正と解釈して解説します。
ただし赤名分場の記録は本場に増して雑でかつ記載が少ないので本当に信用してよいかわかりません。
また、系統名の『酒系3号』について『酒交3号』『酒系3』『酒系-3』などと表記ゆれがありますが、記録そのまま記載します。


改めて、島根県農事試験場赤名分場の昭和29年(1954年)業務報告において「酒米品種の育成淘汰」の項目があり、そこで「(ロ)早生雄町×近畿33号 F3」40坪の記載があります。
(ちなみにイロハの「イ」はのちの『改良八反流』となると思われる『八反流2号×農林44号』、「ハ」は『農林10号心白系』となっており、酒米品種の育成淘汰供試数はこの3つですべて)


◇母本の『早生雄町』は島根県内で栽培されていた広島県由来の雄町系品種で、当時基準で島根県内における早生品種です。
昭和27年(1952年)の酒米品種生産力検定試験で『早生雄町』の経緯について以下のように記載あります。
「比婆雄町は広島県比婆郡山間部より移入されたものであるが、早生雄町として良質多収にて酒米としては好評を博しているが、脱粒しやすい欠点がある」

◇父本の『近畿33号』は、昭和18年(1943年)から島根県で奨励品種に指定されていた多収の穂数型早生品種です。
昭和10年に農林省農事試験場鴻巣試験場で『近畿15号』を母本、『近畿9号』を父本として交配された後、雑種後代第3代を兵庫県立農事試験場における農林省指定水稲新品種育成試験の供試材料として配布され、爾後選抜育成され、昭和18年5月に『近畿33号』と命名されたものです。
交配の目的は明記されていませんが脱粒性が「難」であることと、多収であることを導入しようした可能性は高いように思われます。
稈長は80cm程度と短いほうですが、『改良雄町』に対して反映されていないのは、当初から短稈化が目的で無かったか、取捨選択の結果なのか…


昭和29年時点でF3(雑種第3代)ということは、逆算すると昭和26年(1951年)交配、昭和27年F1養成、昭和28年F2養成・選抜のような育種経過をたどったことが推測されます。
ただこの昭和29年は他2系統(八流2とN10号)には選抜個体数の記載があるのに、『早生雄町』にだけ何も記載がありませんでした。

翌昭和30年(1955年)も同じく赤名分場の育種の部「酒米品種の育成淘汰」に『早生雄町×近畿33号 F4』が記載。
40坪に作付けされ、13個体を選抜したと記載されています。

昭和31年(1956年)、またしても業務報告には何も記載がありません。
一応赤名分場には「酒米品種生産力検定試験」の項目だけ記載されているのですが、本当にこの項目名が記載されているだけで中身についてはゼロ文字、一切記載されていません。
ただし、『改良八反流』の育種経過から見ても、F5程度ではまだ生産力検定試験は行っていないと思われますが…
島根県に問い合わせて当時の選抜記録でも取り寄せれば(現存していれば)はっきりさせられるでしょうけど、ひとまずそこまで詰める予定は今のところないです。


話を戻して
昭和32年(1957年)、赤名分場の記録に再び早生雄町系が戻ってきます。
「酒米品種の育成淘汰」に『早生雄町×近畿33号 F6』が記載され、他は2系統(八流2&N10号)で昭和30年から変わらず増えていません。

そして赤名分場の「酒米の生産力検定試験」に何の説明もなく、『酒系3』『酒系6』『酒系2』『酒系5』『酒系7』『酒系4』が登場しています。(報告記載順ママ)
これは酒米の育種系統が『早生雄町×近畿33号』と『八反流2号×農林44号』と『農林10号心白系』の3つしかなく、上記生産力検定に『八反×N44 3~7(八反流×44 3~7)』と『N10心白(農林10号心白)』が供試されていることから、この「酒系〇」は『早生雄町×近畿33号』のF6(雑種第6代)と思われます。

それにしても3⇒6⇒2⇒5⇒7⇒4と記載順がばらばらですが、これは中生種最良質の『酒系3』、中生種雄町型心白の『酒系6』『酒系5』、早生種の『酒系7』、早生種で近畿33号類似穂数型の『酒系4』といったように、試験結果に従って羅列しているためと思われます。
…それにしてもわかりにくいので数字通りにしてもらませんかね(この後年はもっとひどい)
閑話休題
「酒造好適米で最良質」とされた『酒系3』は「中生種、粒大は『八反流2号』程度の雄町型心白持ち、心白歩合100%。いもち病、稈蝿ともに強いが冷水に対しては中程度」と記載があります。

また同昭和32年、同じく赤名分場の品種の特性検定試験にこの『酒系』が供試されています。
■冷水抵抗性
「強いもの」…『酒系6号』『酒系7号』
「稍強いもの」…『酒系2号』『酒系3号』
「中程度」…『酒系4号』
■穂首いもち
「強いもの」…『酒系2号』『酒系3号』『酒系5号』『酒系6号』
「中程度」…『酒系4号』

同じ年の同じ分場内の試験結果なのに『酒系3号』の冷水抵抗性が「稍強いもの」と、生産力検定試験の評価にあった「中程度と思われる」と早速矛盾しているんですが…そもそもなんで6系統すべて均等に試験に供試されていないのか?
きっとなにか特殊なジジョーがあったんでしょうね(テキトー)


昭和33年(1958年)、この年から島根県農事試験場本場の試験記録にも『酒系』が見られるようになります。
この年は雑種第7代となります。
本場の原種決定試験「a.乾田における成績」の中に酒米群Ⅰとして『酒系-5』『酒系-3』『酒系-2』が記載。
5、3については評価は×で「見込みなく打ちる」との記載。
『酒系-3』も「早生種の晩。酒系-5よりさらに長稈で、白葉枯病等の発病も多く、成熟期の様相は汚く、収量は酒系-2に劣る。」と散々ですが「倒伏がやや酒系-2に勝り、心白発現率が89%であること」から「△ 次年度更に検討」と記載されています。
原種決定現地試験でも同様に『酒系-5』と『酒系-2』については試験打ち切りの記載があります。

また同じく本場の特性検定試験の葉稲熱病検定試験では「最弱」として『酒系5,2,3号』と記載(原文ママ)あります。

では同昭和33年赤名分場の記録はどうかと言うと、「原種決定本試験」の酒米として、『酒交9号』『酒交3号』『酒交4号』『酒交5号』『酒交1号』『酒交2号』『酒交7号』『酒交8号』『酒交6号』が供試(記載順)。
相も変わらず不規則な記載順ですが、昨年が間飛びの6系統だったのに対して、きれいに1号~9号の9系統供試になっています。
そしてなぜかは知らんけども、「酒系」が「酒交」になりました。(ただしこれは一覧表上の記載だけで、評価の欄では「酒系」に戻っているので、ただの誤記載と思われる。)
『酒系2号』は多収ながら粒色悪く、倒伏・首稲熱に弱く見込み薄。
『酒系1号』は極大粒、多収・良質で安全度(?)も高く有望。
『酒系8号』は熟期がやや遅いは多収良質。
『酒系4,7,5,6,9号』(原表記ママ)は稈蝿に弱く見込み薄。
『酒系3号』はこの年の成績はあまり良くなかったものの、特に良質で安全度(?)も高く継続。
赤名分場では別途水稲品種の特性検定試験に酒系が供試されていましたが割愛します。

昭和34年(1959年)、雑種第8代にして、育成の最終年になります。
最初に赤名分場の記録を見てみます。
原種決定本試験に『酒系1号(酒系1)』『酒系2号(酒系2)』『酒系3号(酒系3)』『酒系4号(酒系4)』が供試されています。
きれいに1~4号が供試されていますが前年度の試験評価(1,3,8号高評価)と一致しないので、ここまでの酒系系統と同一視できないかもしれませんが
この中から今まで同様『酒系3号』が最も評価が高く、「高嶺程度熟期。早生の晩にて穂型は淋しい感はあるが、特に心白明瞭(雄町型)良質、耐病性、倒伏共に強く、多肥栽培増収の期待はできる安全度の高い系統である」とされています。
同時に供試されている『早生雄町』については「脱粒多く、耐病虫性弱く、収量変異も多く生産力も低い」との評価がありました。
評価詳細は省きますが、記載されていた評価を表す記号表記は『〇酒系1号』『△酒系2号』『◎酒系3号』『〇酒系4号』『×早生雄町』です。

次に昭和34年の本場の記録です。
原種決定試験の予備試験で酒米群に関して次の記載がありました。
「本県の酒米は近年極端に早生化され晩生種は非常に少なくなったため本年は赤名分場育成の中生群についてのみ行った」
そして供試されているのは『酒系-3』(供試2年目)と『酒系-1』(供試初年目)の2系統です。
『酒系-3』は「熟期は『農林22号』程度で長稈少蘖、穂重型。穂重型にしては倒伏が少ない。病気には弱いが、穂稲熱にだけは強い。熟期の草姿は汚い。粳米に収量は劣るが酒米としては多く、品質も良く、心白の発生も良好」(意訳)と評価されています。
この評価通り、同年本場の特性検定試験で『酒系-3』が葉いもち「弱」、穂いもち「極強」と判定されています。
また原種決定現地試験でも『比婆雄町』と県下8か所で比較され、収量について1か所は同程度、1か所は少なかったものの、他6か所はきわめて多収と言う成績を残しています。これにより『酒系-3』は「きわめて多収で『比婆雄町』に替え得る結果を示した」と評されています。

以上、昭和34年度時点でいまだに見た目の悪評はついて回りますが、多収であることと米の品質・心白の評価で有望とされ、予備試験ながら「本年度奨励品種に採用の予定」と明記されています。

ここまでの記録の流れから、「赤名分場で交配された『早生雄町×近畿33号』後代の『酒系3号』が昭和34年に育成を完了し、昭和35年から島根県の奨励品種に指定された」と言う解釈で間違いはないように思われます。
病気に弱い、熟相汚し等の評価が私には目につきましたが、結果この『改良雄町』は本場育成ながら同期の『改良八反流』よりも長い間、広面積に普及したのですから、本当に育種は難しいものだと感じました。




系譜図

酒系3号『改良雄町』系譜図

当ブログの系譜図は実は正確ではない(交配時の品種・系統名ではない)ので逆にわかりやすいかと思いますが、『改良雄町』の父親の『近畿33号』は、『改良八反流』の父親である『農林44号(高嶺)』と交配組み合わせを同じにする品種です。
両者ともに農林省農事試験場鴻巣試験地で交配されていますが

・『近畿33号』は昭和10年に『近畿15号(後の『農林8号』)』『近畿9号(後の農林6号)』の交配
・『農林44号』は昭和13年に『農林8号』『農林6号』の交配

なので『コシヒカリ』五姉妹のような「同じ交配から生まれた」という類ではありません。
島根農試がはたしてこれを意識して交配に用いたかも定かではありませんが、同時期に育成された島根県の酒米品種が疑似姉妹のような関係なのは面白いものですね。

ちなみにこの『農林8号』×『農林6号』の交配組み合わせの品種って結構いるんですが、一番有名なのは『コシヒカリ』の母親『農林22号(近畿34号)』でしょう。
ということは『コシヒカリ』たちとも疑似姉妹…?

参考文献

〇業務報告 昭和26年~36年:島根県農事試験場
〇広島県立農事試験場五十年史:広島県立農業試験場


関連コンテンツ








2025年2月23日日曜日

【酒米】雲系A(雲系29-31A)~改良八反流~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

系統名
 『雲系A(雲系29-31A)』
品種名
 『改良八反流』
育成年
 『昭和34年 島根県農事試験場(本場)』
交配組合せ
 『八反流2号×高嶺(農林44号)』
主要生産地
 『島根県』
分類
 『酒米』

さて…もうひと働きでしょうか


どんな娘?

島根県の古豪の一人。(と言っても五百万石よりは若い)

改良雄町と共に、大正から昭和初期にかけて島根県の酒造を支えた純系淘汰品種達の改良版として一時代を築いた。
広島県で主流となっている八反系に近いともされる「八反流」の血を汲む品種。
穏やかで慎重、周囲の調和を大切にする性格を持つが、自己主張が弱いわけではない。


概要

島根県の酒造好適米『改良八反流』の擬人化です。

育成開始当時の昭和20~30年代、島根県の主要品種の一角であった『八反流2号』に代わり有望品種として採用されたのが彼女、『改良八反流』です。
『八反流2号』に比較してやや耐病性、耐倒伏性が改善され、「圧倒的多収」と評された山間・中山間地向けの酒造用原料米品種にして酒造好適米です。


第二次世界大戦後間もない昭和35年(1960年)に島根県の奨励品種として採用、翌昭和36年(1961年)から一般作付けが始まった品種です。
昭和38年は最大174haまで拡大しましたが、昭和48年以降50ha台から数年で20ha以下まで減少、昭和60年には8haまで縮小しています。
昭和61年(1986年)に奨励品種から外れましたが、平成15年に産地品種銘柄に復帰。
この復活は「メーカーの要望によるもの」らしいので、これは現状『改良八反流』を使用している一宮酒造が要望したということでしょうか。

以後、生産が継続されていますが、検査数量は20t程度ですので、作付けは4ha強と推測されます。

島根県における早生品種で、稈長は約100cm、草型も穂重型のために倒伏に弱いです。
千粒重は26.3g程度で、反収は520kg程度見込まれます。
いもち病抵抗性は育成当初こそ親の『八反流2号』より改善したとされていましたが、現在基準では葉・穂ともに「やや弱い」の部類です。


育種経過

明確に育種経過を示した書籍が見つからなかったので、当時の島根県農事試験場の業務報告を元に記述します。
(これが各年ごとの報告となっているため、多々記述内に矛盾や齟齬がありますので、その点は推測で補っている部分もあります。)



昭和26年(1951年)、島根県農事試験場本場にて母本を『八反流2号』、父本を『農林44号』として交配が行われ、この系統は『雲交28』とされました。
主要育種目標は「『八反流』の耐病化」とされています。


◇母本の八反流2号『八反流2号』は島根県立農事試験場が育種した品種です。
姉に当たる『八反流1号』と共に大正8年(1919年)から純系淘汰が開始されました。
大正12年(1923年)に『八反流2号』『八反流4号』『八反流7号』『八反流22号』『八反流23号』まで選抜され、内『八反流7号』が『八反流1号』と改名され、原種に指定されました。
その後『八反流2号』『八反流7号(『八反流1号』として原種指定後もこの旧名称で試験に記載)』『八反流22号』は優型生産力比較試験に継続供与され、大正14年(1925年)に『八反流2号』はそのまま『八反流2号』として原種に指定されています。
(一部「大正15年より原種指定」とする書籍もありますが、大正14年度の業務報告で”原種二號”の記述あり)
従来品質優良として酒造用原料米に適するとの評価を受けていた『八反流』系の最新純系淘汰育成品種です。

◇父本の山陰34号『農林44号』は島根県に昭和24年(1949年)から奨励品種として採用されている品種です。
昭和13年に(1938年)に母本『農林8号』、父本『農林6号』として農林省農事試験場鴻巣試験地で交配、その後F3が島根県立農事試験場における農林省指定水稲新品種育成試験に供され、昭和19年(1944年)に『山陰34号』の系統名が付され、地方適性を試験の上、奨励品種となったものです。(農林番号登録1949年5月)
当時の島根県主力品種であった『農林22号』『農林6号』に比べ、冷水耐性、耐病性(いもち病・ごま葉枯病)、イネキモグリバエへの耐性に優れているとされています。
なお、国として正式な品種名は『農林44号』なのかもしれませんが、『高嶺』もしくは『タカネ』と記載されていることも多く見られました。
※一般的に水稲農林認定品種については「水稲農林52号『タカチホ』から番号では無く品種名が命名されるようになった」という説明が成されることが多いです(実際正式な品種名は確かにそうです)
が、当時の記録を見ると『水稲農林39号』~『水稲農林47号』については既に試験場・流通の各所で固有名称が用いられていたようです。(なぜか48~51号はなし)

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【誤記載についての解説】
と、ここまで書いてきましたが、実はこの交配年と推測される昭和26年(1951年)。
いきなりですがこの年の業務報告に『雲交28(後の『改良八反流』)』の交配の記録がありません。
業務報告は昭和25・26年度の2年度分が一冊になっているのですが、まず、試験場本場の「育種の部」には25年が存在せず、「昭和26年度」しかありません。
そしてそこには『雲交21』から『雲交26』までの交配組み合わせを行ったと記載されているのですが、この中に『八反流』系統を含む交配組み合わせ(母本・父本)はありません。
しかしながら、この翌年に当たる昭和27年(1952年)の業務報告では、雑種第一代養成の中に突然『雲交28(八反流2号×農林44号)』が現れ、昭和26年度業務功程に交配が記録されていた『雲交21』~『雲交26』はF2(雑種第2世代)になっており、明らかに記録が飛んでいます。

×誤記載とみられる交配記録(業務報告に記載されているママ)
昭和25年:交配の記録無し
昭和26年:『雲交21』~『雲交26』
昭和27年:『雲交34』~『雲交38』(ここで27~33が飛んでいる)

〇実際の交配(推測)
昭和25年:『雲交21』~『雲交26』
昭和26年:『雲交27』~『雲交33』(28が後の『改良八反流』の交配組み合わせ)
昭和27年:『雲交34』~『雲交38』

後年の記録からも『雲交』の21~26は昭和25年、27~33は昭和26年の交配であることは間違いありません。
おそらく昭和25年の記録が昭和26年のものとして記載され、昭和26年度の記録が抜けているか錯誤があったから、と推測しています。
【誤記載についての解説終わり】
_________________________________________

翌昭和27年(1952年)に同本場にて雑種第1代養成が行われ、生育個体数28の中から7個体が採種されました。

昭和28年(1953年)、昭和26年に交配された育種個体群(『雲交27』~『雲交33』)について雑種第2代個体選抜試験が実施されます。
ここで後の『改良八反流』となる『雲交28』のみ6月10日に本場内苗代に播種・育苗後、7月17日に出雲市古志町(当時?)のイモチ病検定圃場に栽植されます。(他の育種個体群は本場圃場内)
いまだF2のこの段階でいもち病への耐性に重点を置いて選抜が行われており、また合わせて心白が多い個体も選定された記載があります。
育種目標は「早生甲乙」と記載されており、栽植個体数2,000個体の中から23個体が選抜されました。

昭和29年(1954年)、雑種第3代系統及び個体選抜試験が実施されます。
そしてこの年から栽植地が赤名分場に変わります。
「試験番号1」とされた『雲交28』は「(選抜に当たって)心白に重点を置いたため赤名分場に栽植する」とされています。
23系統として栽植され、6系統30個体が選抜されています。
成績概要として長稈・長穂の穂重型で脱粒しやすく、大粒、多収と評価されています。

また、翌昭和30年(1955年)の雑種第4代以後系統育成試験においても『雲交28』系統は酒米用として赤名分場に栽植されています。(この年の本場では36交配組み合わせがこのF4系統育成試験に供試されていますが、後の『改良八反流』となる『雲交28』と別途『雲交16』以外は全て本場に栽植試験されています。)
6系統群30系統として栽植し、3系統群5系統30個体を選抜しています。
概評として「酒米として現地栽培、心白多い」と記載がありました。

_________________________________________________________________
【誤記載についての解説ver2】

さて、この昭和29~30年におけるF3~F4は赤名分場で栽植されていたからか、本場の記録だけでなく赤名分場の「酒米品種の育成淘汰」にも「八反流2号×農林44号」の交配組み合わせについて移植していた記録がありました。

しかし

なぜか赤名分場の昭和29~30年の記録ではF4~F5世代が一つずれており、かつ両年ともに「40坪 16個体選抜」と記載されています。
これは本場の記録にある昭和29年F3での「6系統30個体選抜」や昭和30年F4での「3系統群5系統30個体選抜」と合致しません。
また少し先取りになりますが、昭和32年の赤名分場の「酒米品種の育成淘汰」でも上記の交配組み合わせがF7世代が一つずれています。

「八反流2号×農林44号」後代選抜記録
本場記録赤名分場記録
S29F3    6系統30個体選抜F4 16個体選抜
S30F4 3系統群5系統30個体選抜F5 16個体選抜
S32F6 3系統群3系統15個体選抜F7


これが赤名分場で別途「八反流2号×農林44号」の交配組み合わせ後代があったということなのか、単に赤名分場の誤記載なのか、明確な判定はできません。
ですが、ここではあくまで前後年の記録との整合性が取れている本場の記載を正とし、赤名分場の記録は誤記載によるものと判断しました。

赤名分場に本場の職員が出張って作業でもしていて、正確な情報を把握してなかったのでは…なんてすべて推測ですが
ちなみにこれも先取りになりますが昭和33年から本場と分場の世代が合致するようになります。

【誤記載についての解説ver2終わり】
_________________________________________________________________

昭和31年(1956年)、赤名分場からは記載が消え、記録が記載されているのは本場の雑種第4代以後系統育成試験のみです。
記録の記載は本場の試験ですが、栽植地は変わらず赤名分場です。(心白歩合に重点を置くためとされています。)
育種目標「早甲」、世代「5」、交配番号『雲交28』の記録として5系統群28系統を栽植したとされています。
前年が5系統30個体を選抜していたので、2個体が廃棄された様子です。
2系統群6系統30個体が選抜され、概評として「酒米、心白多、稍長稈」とされています。

昭和32年(1957年)、雑種第4代以後系統育成試験(本場)では育種目標「早甲」、世代「6」、『雲交28』は4系統群14系統を栽植し、3系統群3系統15個体を選抜します。
ここでもまた栽植系統数が前年の選抜個体数より減っています。
概評は「多収、耐病性、心白多、良質」とされています。
またこの年から「赤名分場に栽植」の記載が消えましたが、はたして省略しただけなのか、本場に試験地が移ったのかは不明です。

この年から本場の育成系統生産力検定試験に系統名『雲系29-31』(交配組み合わせ「八反流2号×農林44号」)が供試されています。
これは『雲系29-31A』『雲系29-31B』『雲系29-31C』『雲系29-33』の4系統があり、『雲交28』の栽植4系統群と共通性があることと、唯一の酒米系統で同じ交配組み合わせですから、『雲交28』の別呼称とみてよいでしょう。
【なお、この試験では世代が「7」となっていますが、これは単純な誤記載と判断して無視します】
『雲系29-31A』の評価は「早生で稍長稈、中穂で草状良、大粒心白歩合90%、良質、多収、いもちは強、稈蝿、冷水抵抗性中。」となんとも抽象的な言葉ばかり並んでいますが、おおむね良好と解してよいでしょうか。
他『31B』『31C』『33』は「前者と略同称、収量、品質稍劣る。」とされています。

さらにこの年昭和32年には赤名分場の特性検定(いもち)に『八反流交配』が、同じく分場の酒米品種の生産力検定試験に『八反×N44 3~7』が供試されていますが、関係があるかわかりません。(こんなのばっかり)
酒米品種の育成淘汰に「八反流2号×農林44号」F7が供試されていますが、この世代数が誤記載であろうというのは前述したとおりです。


昭和33年(1958年)、本場では原種決定現地試験と雑種第4代以後系統育成試験、そして育成系統生産力検定試験に『八反流2号×農林44号』と思われる系統が供試されています。(ちなみに最初に言っておきますが、F4以後育成試験でまた世代数書き間違えてますので無言修正します。)

原種決定現地試験では『八反流2号×高嶺』が供試初年度として「酒米Ⅰ」の部類に供試、山間部4か所、中山間部2か所、沿岸部1か所の計7か所で試験が行われ、倒伏に問題がありましたが収量が頭抜けて多いと評価されています。

F4以後育成試験では『雲交28』F7を3系統群15系統栽植し、1系統群1系統まで絞って選抜し、「多収、耐病、心白多、良質」と評しています。

育成系統生産力検定試験では、『雲系29-31A』F7が供試され、「穂重型、極長稈、強稈、耐病、酒米として好適」と評価されています。

また同じ昭和33年、赤名分場では原種決定本試験の酒米に『八反流2号×農林44号(高嶺)』F7が供試され「倒伏にやや弱い難点はあるが、首熱胡麻(?)に強く比較的安全度(?)も高く、なお多収、良質で有望」と評価されています。
同じ分場試験の「水稲品種の特性検査」稲熱病検定で『雲系A』が「強」判定されていますが、これは『雲系29-31A』という理解でよいですよね?


昭和34年(1959年)、育成最後の年です。
本場では引き続き原種決定現地試験、F4以後育成試験、育成系統生産力検定試験に供試。

原種決定現地試験では『雲系-A』が平坦部と隠岐島を除く山間部・中山間部・沿岸部8か所に供試され、対照品種は『八反流2号』と『比婆雄町』です。
熟期は場所により異なりますが、『八反流2号』より2~4日遅く、『比婆雄町』より4~5日早いようです。倒伏は発生しますが、倒れる時期が遅いため収量に影響はなく、いもち病耐性も大差無いという評価でした。
総評として「『八反流2号』に比べれば圧倒的多収、山間・中山間部の酒米としての優秀性を示した」とされています。

F4以後育成試験では『雲交28』F8が1系統群5系統栽植と、なぜか前年より系統が増えました。
概評として「極長稈、長穂、耐病、良質、酒米」として1系統群1系統が選抜されいます。

育成系統生産力検定試験では『雲系29-31A』が供試されました。

同34年の赤名分場では原種決定本試験に『雲系A』が供試。
対照品種は「八反流」と「雄町」と記載。おそらくこれは『八反流2号』と『比婆雄町』です。
評価として「『八反流2号』に変る有望系統である」とされました。



『雲交28』『雲系29-31』『雲系29-31A』『雲系-A』など、統一性のない雑多で様々な呼称が見られ、さらに世代数の誤記載も多々見られ、調べている間だいぶ混乱させられましたが、『八反流2号×農林44号(高嶺)』の交配組合せが複数ない限りは最終的な呼称『雲系A』が『改良八反流』として昭和35年(1960年)から奨励品種に採用されたはずです。

酒米ハンドブックなどでは「昭和35年に赤名分場で育成」とされていますが、栽植場所は赤名分場であっても、試験を主導しているのは記録を見る限り島根県農事試験場本場ですし、昭和35年にもう『雲系A』関係の試験は見当たりませんし、業務報告の中で『改良八反流』の呼称が使用されています。
昭和34年に育成は完了し、本場で育成された、というのが事実でしょう。

※昭和41年9月発行の全国農業試験場研究業績集第2集では『改良八反流』は「島根農試赤名分場育成」と記載されています。
ですがあくまでも毎年の業務報告を基に判断しています。


育種経過(報告記載ママ)





系譜図

雲系A(雲系29-31A)『改良八反流』系譜図

当ブログの系譜図は実は正確ではない(交配時の品種・系統名ではない)ので逆にわかりやすいかと思いますが、『改良八反流』の父親の『農林44号(高嶺)』は、『改良雄町』の父親である『農林33号』と交配組み合わせを同じにする品種です。
両者ともに農林省農事試験場鴻巣試験地で交配されていますが

・『近畿33号』は昭和10年に『近畿15号(後の『農林8号』)』『近畿9号(後の農林6号)』の交配
・『農林44号』は昭和13年に『農林8号』『農林6号』の交配

なので『コシヒカリ』五姉妹のような「同じ交配から生まれた」という類ではありません。
島根農試がはたしてこれを意識して交配に用いたかも定かではありませんが、同時期に育成された島根県の酒米品種が疑似姉妹のような関係なのは面白いものですね。


ちなみにこの『農林8号』×『農林6号』の交配組み合わせの品種って結構いるんですが、一番有名なのは『コシヒカリ』の母親『農林22号(近畿34号)』でしょう。
ということは『コシヒカリ』たちとも疑似姉妹…?

参考文献

〇業務報告 大正7年~15年:島根県農事試験場
〇業務報告 昭和26年~36年:島根県農事試験場
〇全国農業試験場研究業績集 第2集:全国農業試験場長会

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2025年2月22日土曜日

『山形142号』への交代前!『はえぬき』のいままでの歩み


令和7年2月5日、山形県からの公式発表で『山形142号』のデビューが伝えられました。
名称を募集し、2027年(令和9年)から作付けを開始することを予定しているそうです。
小中学校を対象に名称を応募、と言う報道が目立ったんですが、フツーに一般公募もしていますた。(2025年2月28日締め切り。採用特典等特になし?)

奇しくも…でも何でもないんですが、この『山形142号』は7年も前(平成30年3月)に河北新聞が「『はえぬき』の後継!」とか一時報じたのを真に受けて記事を書いてました。
続報が後日出た感じ、あくまで試験中の系統の一つに過ぎないのと、食味試験の結果が対してふるっていないかのようなものだったので「デマ」と言っていましたが、それが本当になってしまうとは…

いや…いつか後継品種が出ること、代替わりすることは、頭おかしい(誉め言葉)品種の『コシヒカリ』を除けば至極当然のことなので、時間の問題ではあったのですが…
『つや姫』ちゃんはさびしいだろうなぁ…


平成の山形県の稲作を支えた大黒柱『はえぬき』さんがいよいよ引退秒読み?ということで、さらっと『はえぬき』のいままでの情勢をさかのぼってみようかな、と思った次第です。


栽培されている県

『はえぬき』は山形県生まれの山形県育ちの品種!
…とはいえ、最初期こそ山形県内に限って栽培されていましたが、徐々に他県での栽培も広がってますたよ!(同世代のコシヒカリ御三家『あきたこまち』『ひとめぼれ』『ヒノヒカリ』と比べると…比べるな!)


平成10年頃には秋田県で栽培を確認。(最遅。正確な年は未調査)
平成14年頃には新潟県、香川県、大分県でも確認。(最遅。正確な年は未調査)
平成23年産から福島県で選択銘柄に追加。
平成25年からは茨城県で選択銘柄に追加
平成27年産からは福井県で選択銘柄に追加。


秋田県はいつから作付けされていたか不明ですが、最も遅くとも平成10年頃には作付けされています。
山形県外では初の『はえぬき』作付県。
ですが直近令和2年の検査数量102tを最後に検査数量無しとなっています。
産地品種銘柄(選択)からは外されていないようですが、この分だと銘柄指定から外されるのも時間の問題でしょう。
私の手持ち資料で確認できる最大検査数量は平成16年で2,769tでしたが、ここから年々減少して令和3年の検査数量無しにまで至りました。

福島県はそこそこ遅咲きの平成23年産から産地品種銘柄(選択)。
設定後500~600tの数量がありましたが
令和3年に500tを割ると令和4年産で257t、令和5年産で217tと徐々に減少中。
とは言え、令和6年の速報値を見るに、これでも現在の『はえぬき』第二位の検査数量県です。

新潟県は平成18年の2,582tが最大(推測)。
選択銘柄で、早くも平成21年産からは1,000tも切り、順次縮小。
平成27年産から100tも切り、令和4年産でついに一桁の2tに。
令和6年の速報値でも2tになっているので、おそらく最後の1軒の農家さんが『はえぬき』を生産して検査を受けてくれているようです。

福井県はなんでこんなに遅くになってから選択銘柄に指定したかよくわかりませんが(文句ではなく本当に不思議)
初年の平成27年産が128tから徐々に増え、令和元年産で最大の628tとなりますが、そこからは減少傾向。
令和4~5年産の確定値で100t台前半で推移していますが、これでも『はえぬき』検査数量第三位の県となっています。

茨城県もだいぶ遅い平成25年から選択銘柄に指定。
ただ初年度から検査数量は40tとかなり少なかったです。
平成27年産には検査数量は一桁トンまで下がり、令和5年産では検査数量無しとなって、令和6年産速報でも確認できません。


香川県は必須銘柄で設定してくれている優しい(?)県で、平成10年代は主力品種第一位『ヒノヒカリ』、第二位『コシヒカリ』を補完する第三位の品種として『はえぬき』が作付けされていました。(ただし検査数量的には『オオセト』が香川県第三位っぽい)
平成16年頃は3,000t近い検査数量が確認できます。
それが平成25年産から2,000tを割り、平成29年産では1,000tを割り、と年々減少しましたが、これは香川県オリジナル品種『おいでまい』の台頭によるものと思われます。
ここから令和元年産が800t台だったのに対して、令和2年産で急に33tまで検査数量が急減少します。
確定値の令和5年産で10t、速報値の令和6年産で1tと、まだ完全にゼロには至っていませんが、下手せずとも香川県の『はえぬき』農家さんも最後の1軒なのかもしれません。
このぶんだと、めずらしく『はえぬき』が準主力品種として活躍した香川県においても、銘柄設定解除がそう遠い未来ではなさそうです。


大分県では平成24年頃から作付けがほぼなくなる(検査数量が0~2t程度)のですが、平成30年を最後に選択銘柄からも消えました。
検査数量で「0t」表示は0ではなく1t未満の数量を示しているので、おそらく最後の6年間、1~2反程度の水田で作り続けていた方が大分県にはいたんですね。
しかし平成16年産も195tしか検査数量はないので、もともとそれほど大規模普及と言う様子でもないようです。



というわけで、山形県の主力品種としては文句なしですが、他県で目立った活躍ができていたのは香川県くらいでした。
それも最大で3,000t弱なので、秋田県や新潟県のピーク時より少し多い程度で、(生産量の推移は後述しますが)全体で20万トン近い生産量に比べれば微々たるもの(1%以下)です。
山形県が「県オリジナル」にこだわった結果、県外に出したがらなかった…とは言われていますが、原因はどうあれ、結果として国内でもトップ5に入る生産数量を持ちながら、主力生産県は山形県ただ1県と言うのもかなり珍しい部類でしょう。


令和6年現在は検査数量でまとまった量がある、つまり大規模に栽培されているのは本当に山形県のみとなってしまいました。
福島県と福井県はそれぞれ200t、100t程度の検査数量なので、いつ消えてもおかしくないですし、他県も10t以下かすでに「検査数量無し」ですので、順次消えていくのは想像に難くありません。


作付面積

※以下、特段の断りがなければ『はえぬき』の作付面積は全国の面積


セミデビューと思われる平成3年、わずか40haの作付けから始まった『山形45号』(『はえぬき』命名は平成4年)。
山形県従来主力の『ササニシキ』に代わる「ユメのコメ」として、正式に『はえぬき』と命名された平成4年の作付け面積は4,376ha、翌大冷害の年平成5年は16,517ha、さらに翌年平成6年には山形県の水田面積の約30%を占める24,322haと急増していきます。

平成7年には3万ha台に達し、平成9年の時点(32,649ha)で全国の作付け面積シェアトップ10にはいるようになりました。
翌平成10年には山形県内の作付け約3.1万haで山形県内の水田47%を占めていたそうです。
平成12年には4万ha台に到達、平成17年に(おそらく)最大の45,359haに達しました。
この最大値の平成17年で、全国のうるち品種に占める作付け割合は3.1%程だったようです。山形県内では43,209haで県内シェア65.7%となっています。


さて、このあたりから詳細な作付面積の調査はとぎれとぎれになってしまいますが、平成28年ころまで4万ha前後、山形県内に占める作付面積は60%前半で推移していたようです。
(ここまで稲品種データベースの数値)

(ここから社団法人 米穀安定供給確保支援機構 情報部の「品種別作付動向」
平成25年の時点で『はえぬき』の全国に占める作付け面積比率は2.7%であり、山形県内に限れば水田面積の62%を占めていました。

これに農林水産省の水稲作付面積調査から面積を算出すると、大体全国で41,094ha、山形県内で39,370haとなりました。(※正直農水省と米穀機構の母数が同じかわからないので、面積の数値は超ざっくり参考程度

この年はちょうど『つや姫』の作付け面積が全国で10,000haを超えた頃で、当時すでに山形県内で『はえぬき』『ひとめぼれ』に次ぐ、県内の10%を占める第三位の作付け面積となっていました。(上記の算出をすると6,350haくらい)
とはいえ『はえぬき』は『つや姫』デビューの平成22年頃も61%(県内に占める)の作付け面積だったので、平成25年の62%を考えれば、彼女の登場で(比率が)減るようなことはなかったようです。
減ったのはやはり同じ晩生の『コシヒカリ』だったのかな。(作業分散考えても妥当か…)



5年後、平成30年は『はえぬき』の全国作付面積比3.0%、山形県内62.6%とここでもほぼ変わりません。
ただ全国の水田面積が平成25年の152.2万haから138.6万haと減少しており、山形県内の水田面積も63,500haから56,400haとなっています。
面積を逆算すると全国で38,808ha、山形県内で35,306haと、純粋な作付面積は減少しています。
『つや姫』ちゃんは県内作付面積15%までシェアを伸ばしました(推測8,460ha)


さらに5年後、令和5年、『はえぬき』は全国2.8%、山形県内61.6%とこれまた全体の作付けに占める比率はほぼ変わっておらずまったく衰えていませんでした。
ただし同様に全国の水田面積が減って124.2万ha、山形県内も52,400haと減少しているので、全国シェアも34,776ha、山形県内で32,278haと、純粋な作付では減少傾向は変わりません。



生産量

最後に全国の生産量(といっても検査数量ですが)の推移を見てみましょう。
※検査数量なので、『はえぬき』含め他品種も本当に全部の生産量とは限らない。


まぁ最初の栽培県で書いた通り、ほぼ山形県産で他県の生産量なんてほぼ影響がナイデショウケド(悲)


平成16年以前の検査数量データが見つけられていないのですが…
最大面積と思われる平成17年産が233,716t、面積の統計と合わせて考えればこれが最大検査数量に思われます。
逆を言えばこれ以降は減少に転じ、平成19年産で22万t台、平成20年産で21万t台、平成21年産に20万t台となっていきます。

平成22~24年産は19万t台の検査数量となりますが、25年産で21万t台にV字回復。(茨城県が銘柄指定した年ですが、当該県が40tの検査数量なのでこれは関係ありません。)
山形県でなぜか2万t近い増産がありました。(なぜだ?)
続く平成26年産も22万t台とさらに増産。

この期間も基本的に山形県全体の主食用米作付面積は減少しているので、『はえぬき』の検査数量が増えたのは他の細かい品種の整理がされた結果…だと思うのですが、これと言って2万tも減っている品種がないような…?(いやきっちり表にして見比べていないんですが)
『つや姫』デビュー後もなぜか勢力増していたのですかね。

とは言えそれもここまで…と思っていたのか?
平成27~28年が20万t台で、平成29年19.1万t、平成30年17.8万tと減っていくのですが…
これが令和元年度に再び19.7万tまで増加します。
このまま令和3年産まで(減少気味ながら)19万tを維持しており、全国的にも山形県内としても全体のうるち米の生産量が落ちている中、謎の粘り腰を見せています。

しかしさすがにこれが最後の増産。
令和4年産は約17.5万トン。さらにこの時点でもう100トン以上検査数量のある県は福島県と福井県しかありません。

令和5年産は約16.7万トンとまた少し減少しました。そして何より特に高温障害のひどかったこの年、一等米比率が31.9%まで落ち込みました。
日本全国等級が落ち込んで、令和のコメ騒動初年度もこの年ですね。
平成最大の冷害年も平成5年でしたし、「5」は米にとって呪われた年…?


令和6年産の検査数量は現在令和6年12月時点の速報しか出ていませんが、同時期の令和5年産に比べてやや少ない数量となりそうな気配はあります。
『ササニシキ』は平成5年の大冷害後、そこそこがっつり面積が減っていましたが、『はえぬき』の立ち位置的に、多少高温障害で等級が減ったくらいなら、他の品種に変えることもなかったということでしょうか。(冷害と違って収量はひとまずガッツリ減らないことと、目の前に適当な代替の品種がないこともあるでしょうけども)



1等米比率

検査数量の記録を私が見られたのが平成18年からなので、それ以前はわかりませんが…
※県別でしか出していない年もあったので、以下山形県における検査結果だけ。

平成18~21年産まで90%どころかほぼ95%超えが続いており、平時はこれがスタンダードと思われます。
93%⇒95%⇒96%⇒97.1%

平成22年産が一転急落して75.3%となっているのですが、これは『つや姫』の高温耐性を知らしめた記録的猛暑の年だったからですね。
全国平均1等米比率が約63%と低下した年ですし、高温登熟耐性が高いわけでもない『はえぬき』であればこの結果は順当でしょう。

これ以降は低い年で90%とちょい、他は95%前後と、80%台すらない高水準で令和4年まで推移しています。

そして令和5年、この年も全国的に高温障害が問題になった年で、『はえぬき』の1等米比率も31.9%まで大きく落ち込みます。
前述したように『はえぬき』の高温登熟耐性は高いわけではなく、並の中の並「中」ですから当たり前と言えば当たり前です。
そして同じ「高温の年」といっても程度が大きく違ったということでしょう。
高温に強いはずの『つや姫』の1等米比率まで大きく落ち込んで、大変な年となりました。

令和6年産は速報値ですが91.4%と平時通りの実力を発揮中です。



総合的に

※当ブログは、山形県産米については特に依怙贔屓を行います。


『はえぬき』は間違いなく平成~令和において山形県の主力品種として作付面積・収量両面で活躍している品種で、令和6年現在も健在です。

『つや姫』『雪若丸』といった新興品種登場後も山形県内のシェア6割を占め続け、幾度か生産量の増加を見ていることからも、山形県内の頼れる汎用品種と言えるのではないでしょうか。


1等米比率も90%どころか95%前後となることも珍しくない、超優秀品種です。


交代が公言されたといっても山形県内で3.2万ha(東京ドーム約6,800個分!)という広大な面積で栽培され、特段高温年でなければ収量・品質ともに文句のない優等生です。
16万tクラスの生産量のある『はえぬき』は果たしてスムーズに後退となるのか、『山形142号』が足踏み状態となるのか、注目していきたいですね。

『山形142号』の方が収量は上、らしいですが果たして実際の現場で差が出るかが不透明だと(管理人が勝手に)思っています。
高温登熟耐性が強くなるのももちろん強みですが、熟期が同等とは言え『雪若丸』の血を引いているとなると葉色の変化その他細かく栽培の肌感覚は違うでしょうし、「慣れている『はえぬき』でいいや」という考えも大いにあるのかなぁ…と。

当然山形県は一定時期までに種籾の供給を100%切り替えするのでしょうけど
『はえぬき』デビューと同等の展開ができたとしても、3万haレベルまで4~5年はかかりそうですし、その間に(農家さんの不慣れによるものも含む)「うまく採れなかった」系の話で紛糾するようなことがないといいなぁ・・・と思います。
現地試験と、実際に不特定多数の一般農家に配って栽培するのとではまた違った問題が出るでしょうし、(早々無いとは思いますが)猛烈にバッシングが出たら種子切り替え先延ばしなんてことも(被害妄想)
山形県としては原種圃管理大変なのでさっさと切り替えたいでしょうけど…

しかしながら
気象変動へのリスクヘッジ、品種の寿命等総合的に見て、30年以上主力を張ってきた『はえぬき』は隠居の時期でしょう。
贅沢を言うなら『山形142号』の高温耐性はもう一段階強いものが欲しかった気もしますが(同クラスの『つや姫』のR5検査結果を見ていると)
「その時あるもので勝負する」もまた心理の稲品種。

『山形142号』へ期待を寄せ、支えていきましょう。
なんだかんだいって、完全切り替えは令和13~14年頃でしょうからまだまだだしょ!



・・・いややっぱり悲しい
もうちょっといてくれないかな
『どまんなか』も令和元年からがっつりへってるけどまだ数百トンはあるし…仲良く末永く…


参考文献

食糧統計年報平成15~20年版


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2025年2月11日火曜日

【真面目に】チンコ坊主について語ってみる【水稲品種】

水稲品種『チンコ坊主』について、そろそろ真面目に解説してみる。

かつてはトリビアの泉で取り上げられ、最近(といっても令和7年現在でも相当期間が過ぎてしまっていますが)お米擬人化アニメで登場してやや世間を賑わした『チンコ坊主』
テレビで紹介された「股間の高さの稲だからチンコ坊主」(雑)という謎主張の方が有名になっているようですが、これは根拠薄弱なのであまり信用しない方が良い様子。


大正~昭和初期のイネ品種を散々調査してきた者として、そろそろ真面目に彼女『チンコ坊主』、というか稲品種『チンコ』について解説してみたいと思います。


情報を見つけられたの彼女たちくらいなのですよねん

大正~昭和初期のイネ品種を散々調査してきた者として、そろそろ真面目に彼女達『チンコ坊主』、というか水稲品種『チンコ』について解説してみたいと思います。
(要は「北海道独自の品種ってわけじゃないぞ!」ということだけネットにあげときたい)

本当に
真面目な

とは言え、この先「チンコ」を連呼しますので、ここから先は心が汚れてしまった人には苦痛で不快な記事になるかと思われます。
そんなふうに考えていた時期が、私にもありました。
純粋無垢、赤ん坊のように清らかな心で読める方のみお進みください。


目次




1.最初に注意点(大前提の話)

江戸時代後期~明治~大正時代の品種名は同名異種、異名同種が当たり前にあります。
残る記録に品種名と一緒に由来が書いてあればまだ特定することも出来るのでしょうが、その実、当時の農事試験場の記録に品種名の由来まで記載されていることは非常に、非常~にです。

つまり全ては謎と言うことです・・・と言っては話が始まる前から終わってしまいますので、以下、同じ名前の別品種(同名異種)の可能性もある前提で聞いてください。(あまり積極的に裏取りしていませんというか古すぎて資料があまりありません)
あまり毎回「違う可能性はあります」「他の可能性もあります」と言うのもくどいので、やや言い切る形で記述させて頂きますが、私も特に確信や確証があるわけではありません。
話半分か、話3/8(37.5%)位で聞くのがちょうど良いでしょう。

『チンコ坊主1号』育生者の上川農試(現上川支場)が(昭和7年時点から)公式に「来歴不明」としている以上、確たる文献なんて存在しないとは思いますが
ファイトを燃やして裏取りしたい方は是非その結果を教えてください。


今回は積極的に資料収集したわけではなく、他目的で手元に集まっていた資料の中から探した結果なので、「真面目に解説」と銘打ってる割には、網羅率は結構いい加減です。
でもここまで言及しているものはネット上ではないと思いたい。(詳しいページあったら勉強したいので教えてください。)

閑話休題


2.ウィ○ペディアに載っている『チンコ坊主』

当ブログにおいて復刻系の酒米関係の話になると、情報精度の低さから散々批判しておりますウィキ○ディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B3%E5%9D%8A%E4%B8%BBですが、今回の話のとっかかりとするにはちょうど良いかもしれません。
軽くまとめると

・チンコ坊主(チンコぼうず)は、北海道で栽培されていたイネの品種。
・同じく北海道で育成されたイネ品種の『坊主』から派生したと考えられるが、来歴は不詳。
・明治末期から大正初期に道央で選出されたと考えられる。
・分離育種された『チンコ坊主1号』『チンコ坊主2号』が優良品種となっている。
・品種名の由来については諸説(2つ)ある。
  1. 『チンコ坊主』がやや短稈で、穂先の高さが、成人男子の股間の位置にあったからというもの。テレビ番組『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』で取り上げられた。
  2. 「チンコ」という言葉の原義は「小さい」であることから、「チンコ」=「珍子」(「草丈が小さい珍しい変わりだね」)の意味であろうとして、単純に原品種と考えられる『坊主』より小さかったために名付けられた。

と、こんなところでしょうか。
前者1が水稲とは無関係の甜菜雑誌に、根拠も無く提示された説として信用性はかなり低いようですが、テレビに取り上げられただけあって、信用性が取り沙汰された後も「ラブ米」公式がこの説を取り上げるなど、知名度としてはこちらの説が圧倒的に高いようです。(主観と偏見)
と言う風に世間一般心が汚れている方々にはどうも「股間」にイメージが寄せられるようですが、清廉潔白、心が清らかな私には・・・

と言う冗談はさておき

一般の方よりかは、多少なりとも明治・大正の品種試験成績を読み漁ってきた(現在の)私からすれば、『チンコ』系品種が北海道の品種、ということ自体に違和感を覚えます。(真面目)
とは言え私は資料の入手方法も限られた一般人ですから、これから述べることはあくまでも「私が目にした資料の中で」と言うことでご了承頂ければと思います。

記録が残る他情報があれば是非教えてください。


3.まずは北海道の『チンコ坊主』系品種の基本情報

ウィ〇の情報精度は基本当てにならない(主観)ので、当時の記録に残る北海道の『チンコ坊主』のおさらいをしておきましょう

※農研機構のジーンバンク保存個体の試験栽培結果も公開されていますが、当時の記録と食い違いが多いので、純度に難ありとみて参考にしていません。

(公式の)来歴は不詳ながら、少なくとも明治時代には北海道で中熟種『チンコ坊主』が栽培されていました。
茎稈が短く、分蘖が多く、籾(稃先及び護穎)の色は暗褐色。米粒は中位で長形、鈍白色で玄米外観品質はすぐれないものの食味は良好(昭和13年時点)とされています。
正確な記録が見つけられませんでしたが、純系淘汰の『チンコ坊主1号』『チンコ坊主2号』の稈長が2尺8寸(約84.8cm)なので、在来『チンコ坊主』もほぼ同程度ではないでしょうか。
従来説で元品種とされている『坊主』(在来)は茎稈が長く、分蘖が少なく、籾(稃先及び護穎)の色は黄白色、米粒は大粒で中形の白色であるとされているので、芒がない(坊主)である点は同じですが、あらゆる点で相違があるのがお分かりいただけるかと思います。
在来『坊主』も稈長の正確なデータは見つけられませんでしたが「茎稈やや長い」とされる『坊主2号』の稈長が3尺3寸(約99.9cm)なので、在来はこれより長い1m超えだったのではないでしょうか。
(※「短い」とか「少ない」とか抽象的すぎるだろうと思ったあなた、当時の記録の表記そのままなので私悪くない)

特性茎稈稈長(推測)分蘖米粒米色
チンコ坊主(在来)短い約84.8cm多い無芒暗褐色中位長形鈍白色
坊主(在来)長い約100cm超少ない無芒黄白色大粒中形白色


『チンコ坊主』について北海道農事試験場上川支場では大正7年から純系淘汰育種が開始され、育成された上川第3号(上育3号)『チンコ坊主1号』及び上川第4号(上育4号)『チンコ坊主2号』が大正13年2月に優良品種に決定され、普及に移されています。
1号2号ともに在来『チンコ坊主』より収量が増えているであろうことが想定されますが、『チンコ坊主2号』は『チンコ坊主1号』より3~4日熟期が早いものの収量では劣るとされています。
米粒は「小粒中形」や「中粒長形」と表現されていますが、『チンコ坊主2号』の千粒重は18.9gと、現代の主要な品種と比べると小粒のようです。(『コシヒカリ』で20~22g)

これらの作付け(在来+上記純系淘汰後代併せてと推測)は昭和4年時点で13,802.6町歩にも達し、これは当時の粳品種全道作付面積(163,083.5町歩)の約8.4%に相当します。
(昭和8年は10,574.2町歩【粳種計175,651.6町歩】)
ただ昭和13年の作付面積記録になると『チンコ坊主』(在来)が4,421町歩、『チンコ坊主1号』が1,160町歩、『チンコ坊主2号』が624.7町歩【北海道内粳種計167,844.4町歩】となっているので、前述の面積も在来種が多くを占めていると思われます。(ここまでいずれも北海道農産物検査所集計値)
しかしこの『チンコ坊主』個別の作付面積の記載は昭和14年には北海道統計からも消え(「その他」に含まれるようになったものと推測)、ここからいよいよ急速に減少していったことが推測されます。
『チンコ坊主2号』は昭和13年にいもち病検定の標準品種や、昭和15年に『農林20号』の比較試験にが用いられてはいるんですが、これが最後のご奉仕だったのでしょうか。
昭和12~15年頃は北海道の従来在来・純系淘汰品種群が急速に減り、人工交配による多肥多収品種『富国』が急速に普及・台頭したと言われている時期なので致し方ないですが、こうして大正から昭和初期の10年と少しの期間で『チンコ坊主』は統計上姿を消していきます。(実際多少の作付けはあったでしょうが)

明確な作付面積の統計が出始めるのが大正頃からですから、『チンコ坊主』がまさに北海道の品種、と捉えられても致し方ないかとも思います。
ですが
そんな『チンコ』は本州にも記録が多々残っています。


4.明治後期~大正初期時代の『ちんこ』『珍子』『珍光』

※品種名は現表記ママ(カタカナはカタカナ、ひらがなはひらがな)

まずこれは最初に申し上げますが、「チンコ」と言う品種はいろんな作物の品種名として一般的らしいです。
麦(小麦、裸麦、大麦)の品種でも『珍子』『ちんこ』『コチンコ』『珍好』をよく見かけるような気がします(真面目に見ていない)が、以降は水稲の話のみになります。

■【農商務省農事試験場】
道府県で農事試験場が開設され、試験記録が記載されるようになるのが明治25年前後以降です。
そこで網羅と言う意味ではおそらく一番幅広い農商務省農事試驗場(本場及び各支場)、その明治20~30年代の試験記録に記載されている品種を探してみると、『越後珍子』(新潟県)、『珍子』(滋賀県)、『ちんこ』『珍子』(鳥取県)が見つかります。
品種名は「珍子」でいずれも芒がない点は共通ですが、おそらく新潟県と滋賀・鳥取の『珍子』は別品種群と思われます。
『越後珍子』は葉長約77cm、籾色は「白黄」、8月中旬出穂、10月上旬登熟に対して
滋賀県と鳥取県の『珍子』は葉長約94cm前後、籾色は「褐黄」、8月下旬~9月上旬出穂、10月中下旬登熟です。

■【新潟県農事試験場】
『越後珍子』の取り寄せ先となっている新潟県は業務功程で『チンコ』を見かける県です。
先にネタバレになりますが『チンコ坊主』の存在も新潟農試の記録で確認できます。

■【滋賀県農事試験場】
『珍子』取り寄せ先の滋賀県では、明治末期に県内の在来品種を調査していますが、そこでも『珍子』系品種が数種類挙げられています。
これは小川正巳氏の「史料に見る近江の稲・米(3)」に詳しいですが、「珍子系品種」以外にも、“珍子”の名称が多く使用されていますので、主体となる品種名とは異なる『チンコ(珍子)』もあるのもまた確かです(詳細は後述)
とはいえ『短稈渡船』の調査で散々大正期の業務功程は読んだつもりですが、『珍子』があったイメージはないんですよね…廃れるのも早かったのかな?

■【鳥取県農事試験場?】
そして『ちんこ(珍子)』の鳥取県は…ネットで見れる資料が少ないので未確認なのですが、すくなくとも大正においてはその姿を確認できていません。

■【長野県農事試験場】
また、少し異色ですが『珍光』及び『赤珍光』を見かけたのが、明治~大正においては長野県があります。
これについては読み方の確証は得られていませんが、「ちんこ(う)」と読むのではないかな…と(完全なる憶測)。
一応大正5年から大正13年までの間、長野県で原種(奨励品種)に指定されていましたが、言い換えれば大正13年以降は普及をやめてしまっているということですね。
それでも大正11年から長野農試で行われた人工交配試験の交配親に使われ、採用品種(『信濃1号』『信濃糯1号』)を生み出しているので、それなりに優秀と認識されていた品種だったのでしょう。
いずれも葉長は110cm程度で、分蘖数は25前後で多く、8月上旬出穂、10月上旬登熟です。

【群馬県農事試験場】
なお、群馬県農試で新潟県から『珍光』を取り寄せ試験している記録も残っていますが、これは『チンコ』に当て字をしたか誤字のいずれかと思われます。

【福井県農事試験場】
しかし大正時代の終わり、昭和に入る時点において原種(奨励品種)指定しているのは、北海道の『チンコ坊主1号』及び『チンコ坊主2号』を除けば、ここで唐突に出てくる福井県『白珍子』系だけとなります。
この『白珍子』は明治40年に福井県内の今立郡から取り寄せたもので、品種比較試験の結果、大正2年から種子配布開始、大正5年から原種(奨励品種)に決定したものです。
ちなみにこの『白珍子』から『牧谷珍子』(まきだにちんこ)が選出・育成されています。(多分奨励品種にもなった…はず)
明治41年福井県南條郡北杣村牧谷の山内七右衛門が変わり穂6穂を選出した中から育成されたもので、明治末期には『牧谷珍子』もしくは『七右衛門珍子』として中部地方山間部で大正末期より重要品種となったそうです。
と、後代の来歴はわかっていますが、福井県内で珍子種が栽培された経緯はわからない、と言うのが公式です。
いずれも葉長100~110cm、9月上旬出穂、10月下旬~11月上旬登熟で、新潟県と同じ北陸ですが、滋賀・鳥取の『珍子』に近い品種のように思えます。



さてこのように「明治後期~大正初期」には『チンコ』『珍子』『珍光』といった品種が新潟・福井・長野・滋賀・鳥取?と言った県を中心に農事試験場の試験に見られます。
明治後期以降、特に農事試験場の記録が多々残る大正時代において「農事試験場の試験に供される=期待度の高い品種」という意味合いでは、個人的には新潟・長野・福井の3県、つまり北陸周辺のイメージが強いです。

と言っても47道府県農事試験場全ての記録を網羅したわけでないので、これ以外にも有望視されていた県があるかもしれません。
しかし、ここまで有望視されていても大正15年を過ぎ、昭和の時代に突入する頃には、北海道と福井県以外からはこういった『チンコ』系品種は姿を消しています。
むしろ新潟県では大正時代に入った時点ですでに試験から消えているところを見るに、他在来と比べて優秀な点なしと判断された可能性もあります。
・・・他の何かの在来品種と異名同種の可能性があるのですがそれはまた後で


5.(少し脇道)『チンコ(珍子)』の使われ方&『チンコ坊主』新説

前述したのは『チンコ』系品種とも言うべき品種たちです。
と言うのも、先ほど「史料に見る近江の稲・米(3)」に記述があると言ったように、どうも明治より前の時代には「珍子」という言葉自体に「背丈が小さい」もしくは「珍しい」といった意味合いがあるように見て取れ、既存の品種名に附帯する形で使用されていることも珍しくありません。

これは北海道『チンコ坊主』の由来説で記載されている「背が低い“坊主”なので『チンコ坊主』と命名された」まさにそのものでしょうか。
実は「坊主」も同じ使い方をされており、「●●」と言う品種の“無芒種”に対して「●●坊主」と言う名称がつけられることがしばしば見られます。
これと「珍子」も同じ使い方をされているわけですね。

…と言っても、品種名に『チンコ』が附帯する具体的な例として思い返して、この記事のために再度根拠資料を見つけられたのが岡山県しかないのですが・・・(もっとあちこちで見たような・・・)
これがなんと日本酒界隈には知名度抜群の『雄町』で、『チンコ雄町』が大正初期に試験に供試されています。


岡山県内から収集された『チンコ雄町』なので、まさか「岡山県雄町で見つかった『チンコ種』である」なんてことは無いでしょう。

と、これはたまたま有名かつ地理的にも「チンコ」が本来の品種名に附帯する意味合いであることがわかる例ですが、実際はそのどちらとも判別できない場合もあります。

品種名の主体としての「チンコ」と、品種名に附帯して何かしらの意味を付与する「チンコ」2種類があることはわかって頂けたでしょうか。
ウィ○ペディアの記事、つまり従来説では、北海道で育成された品種『坊主』があることから、『チンコ坊主』は後者、つまり「『坊主』を改良した結果の何かしらの意味を附帯したもの」として扱われているようです。
「股間の高さ」にしろ「小さい変わり種」にしろ、要は「小さい『坊主』」の意味合いで『チンコ坊主』となったのであろう、ということですね。

ですが、『坊主』には品種名以外にも、無芒を指す意味があることは前述したとおりです。
つまり北海道生まれの水稲品種『坊主』の改良・変種では無く、北陸周辺で普及していた『珍子』の改良・変種、もしくは県外から移入した品種が『チンコ坊主』そのものなのではないか?と私は思うわけです。

一応このように思った理由としては「新潟県の在来品種に『チンコ坊主』があるから」と「『チンコ坊主』の異名の呼ばれ方」の2つがあります。(後述)


■【新説根拠1】新潟農試で試供される在来『チンコ坊主』

明治29年の新潟県農事治試験場における種類試験(品種比較試験)に、『チンコ坊主』まさにその人()が供試されていました。
収集先が「本県西頸城(にしくびき)郡」なので、新潟県の在来品種として『チンコ坊主』が存在していたことがわかります。
新潟県における中熟種で8月上旬出穂、10月上旬登熟。草丈は63.6cmで、分蘖数は25と、他の供試品種が16前後に対してかなりの多分蘖(穂数型)品種です。無芒で籾の色は淡黄色とされています。

少なくともこの時期は『珍子』が新潟県内でもまだ有望?視されていた時代です。
この『チンコ坊主』が北海道に渡って上川で作付けされたとは考えられないでしょうか。(これは『珍子』の無芒種…と言いたいところなんですが、明治32年農商務省試験場記録で確認できる『珍子』系列はすべて無芒なので…)
新潟県は日本でも屈指の豪雪地帯、冷たい雪解け水で育つ品種が、冷涼な北海道でも育つ期待を持たれたのでは無いかという推測も矛盾しないのではないでしょうか。
そして何より「短い草丈」、そして「多分蘖」は北海道の『チンコ坊主』と似通っています。
籾の色と、やはり本州品種と言うことで熟期がかなり遅い(北海道目線)ですが、北海道の『坊主』よりはかなり似ていると言えると思います。

新潟県は北海道への移住世帯数が、全国でもかなり上位だったらしいので、移住者が持っていった可能性は十分にあるでしょう。


■【新説根拠2】北海道内における『チンコ坊主』の異名

北海道農産物検査所が発行した「昭和八年度事業成績」には『チンコ坊主』の異名同種として扱う品種として『上川チンコ』が記載されています。
異名同種の集計に勤めながらもいまだ不十分な点があるとされており、現物がある当時ですら判断が難しいことがうかがえますが、そのような状況の中便宜上ながら異名同種であると判別しているものとして挙げられているのが『上川チンコ』です。

これは完全な主観なのですが
『坊主』が「上川」で改良されたのなら「上川坊主」と呼ぶのが自然では無いでしょうか。
『坊主』は明治28年に在来『赤毛』から選抜された無芒種で、明治38年頃の直播器の開発とともに上川地方でも爆発的に普及し、昭和10年代前半までは北海道の中でも最大の作付面積を誇っていた有名品種です。
この『坊主』が上川で改良され、普及したなら、「上川で改良された『坊主』だ」として“上川坊主”になるのではないでしょうか。

従来説でも全国一般にも、主要な品種名に附帯する場合“小さい“や”珍しい“を意味する”チンコ“です。
これと地名を組み合わせても「上川の小さいの」「上川の珍しいの」と言う意味にしかなりません。

これは「上川で作付けされていた『チンコ坊主』」だからこその異名『上川チンコ』だったのでは無いでしょうか。
まぁ「通り名なんて本来の意味とそんな関係ないだろ」とか「普通に改良後のチンコ坊主として普及してから異名がついただけでは?」と言われてしまえばそれまでなんですが。

まぁ確定は誰も出来ませんから()
でも、北海道在来の『坊主』があまりにも『チンコ坊主』と各種特性が違いすぎるのは一番気になった点です。
まぁそういう意味では『滋賀渡船2号』も『渡船』系品種にしては異形の穂数型だったりなので「あり得ない」レベルではないのでしょうけども…


6.話半分の半分(1/4)くらいで聞いて欲しい『信州金子』の由来

さて、北海道の『チンコ坊主』の起源はひとまず脇に置いて、引き続き『チンコ坊主』の話が続きますが、次の舞台は長野県です。


しかしながらこれは非常~~~に怪しい話なのです。
あまりまともにとりあわないでくださいね。
でも一応「小学校補習学校適用農業教授大資料(大正14年)」にも乗せられている説なので…
と言う前置きを念入りにした上で…

東北を中心に栽培が広まった『亀の尾』の前に、東北で有名だった品種に『信州金子』という在来品種がいます。
東北各地の審査会(コメの品評会?)でも賞を多くとり、奥羽系の育成品種の交配親に変異種の『酒井金子』がよく用いられるなど、平成・令和現代でこそ『亀の尾』のような華やかな尾ひれが付いていないものの、当時としては非常に優秀な品種であったことがうかがえます。

そんな古い品種ではあるものの、その由来…というか伝聞が残っています。
明治34年に山形県主催で開催された第四回奥羽6県連合物産共進会の復命書に掲載されていたものです。
記載している文章に些か不自然と言うか理解しがたい部分はあるのですが、おおむねの内容としては

信濃国には『鳥本坊主』と言う品種があり、その中から米質の良いものを選出し『チンコ坊主』と命名され、耕作されていた。
下野国【現・栃木県】下都賀郡上國府塚村の松本勘次郎氏がこの『チンコ坊主』の種子を国に持ち帰り、優れた品種であったことからこれを『信州金小』と命名する。
明治20年にこの『信州金小』の種子を穴澤氏が譲り受けて、以降毎年『信州キンショウ』と称して篤農家に分配した。
明治22年、岩代国【福島県西半部】安積郡の勧業委員である某氏(誰か)が穴澤氏から『信州金小』の種子を譲り受け、「金小」の文字を「カネコ」と読んで熱心に普及したことから、「キンショウ」が変じて「カネコ」となり、これが最終的に「金子」となったことから品種名が『信州金子』となった。


さて、これはあくまでも物産共進会の復命書の中にある記述です。
あくまでも情報源の裏打ちがないと言うところには留意せねばならないでしょう。
このお題の冒頭で怪しいとされている『チンコ坊主』の由来【1】や、間違いであると証明された『愛国』の赤出雲説など、実際に間違った由来説は存在します。
ましてや農事試験場関係者でも、直接の関係者でも無い(かどうかよくわからん)人間の言うには・・・というところは断り書きはすべきでしょう。
農事試験場の関係者が言っていれば間違いなく正しい・・・とまでは言いません。
ただ人間が何かを語らなければと思ったときに、悪意は無くとも作り話をしてしまうこと、もしくは根拠薄弱な噂話を真実のように語ってしまうことは往々にあるからです。


くどくど書きましたが、本筋に戻りますと
一方で、九州大学のイネコレクションの中にはこの『信州金子』が保存されており、由来も記載されています。

それは
信州某地の島本坊主より選出。信州金子、信州金小、金光坊も略同種、下野国下都賀郡上国府塚村松本某氏選出。
というものです。

「鳥→島」になっている、途中の詳細がない、「チンコ坊主」が省略されていると細々違うものの、大筋はこの説に則っているように見えます。
「鳥→島」になっている部分は単純な読み違い、途中の詳細がないのは冗長なので省略したであろうことはわかるんですが・・・気になるのは「チンコ坊主」のくだりまで消えていることです。
九大に保存されるに当たって「チンコ坊主」がふざけているように見えて省略したのか、何かしらの追跡調査や根拠調査を行った結果、作り話だとわかって「チンコ坊主」が削除されたのか、はたまた選抜されたわけではない(ただの名称の変更と判断した)ので省略したのか・・・もはや真相はわかりません。

ただ明治後期に長野県内で存在した『珍光』や『チンコ』の変種や選抜ではなく、『鳥本坊主』を『チンコ坊主』と称した、というのはやはり少し違和感も感じる点ではありますが・・・
滋賀県の調査で珍子系品種に『伊勢早生』(伊勢錦っぽい)や『撰出』(神力っぽい)、『白弁慶』(辨慶っぽい)が含まれていたことを考えると、草姿か何かが似通っている全く別の名前の品種があった、と言う話も十分あり得る範疇でしょう。
なので「長野県の『チンコ坊主』」説もあながち嘘とはいえない…のかな…?

ちなみに最初に述べた説内で『チンコ坊主』もとい『信州金小』が途中経由している栃木県では明治40年に下都賀郡隣の芳賀郡農事試験場から『珍光』を取り寄せて試験している記録があり…(さすがにバイアスかけすぎでしょうか。)

であればやはり『信州金子』は『チンコ坊主』の異名同種…!

でも
実は明治41年に農商務省農事試験場(東京西ヶ原)が発行した農事試験場特別報告「米ノ品種及其分布調査」における『信州金子』の由来はこう書かれています。(平仮名・現代漢字に変換、品種名に『』追加)

「本種は本県の『金小坊』にして他府県に出て、『信州金子』の名を有すること、為れり。『金小坊』の来歴に就きては未だ明かならす」

うーんまぁでもこと由来に関しては試験場の報告が正しいとは限らないので(これは本当に。)

でも『金小坊』の読みは不明ですが「きんこぼう」だとすると、発音からして「ちんこぼうず」と聞き違えないこともないような…
それに『“金小“坊』に信州(長野)をつければ「信州金小」…うむ!
詳しくは後日、『信州金子』記事で!(本当に出せるの?)

7.ではなぜ長野県には『チンコ坊主』がいないのか

話が進まないので、長野県にも『チンコ坊主』がいた前提で話しましょう。
長野県の『チンコ坊主』が名前を変えた『信州金子』・・・と言う割には、その本家である長野農試の試験には明治後期時点で『珍光』だけで、『チンコ坊主』も『チンコ』も見当たりません。

明治28年時点で内国勧業博覧会に長野県から『珍子』が出品されているので、県内で栽培されそれなりに優秀であったであろうことは推測できるのですが。

これを推測(都合の良い妄想)するためのヒントが隣県新潟農試の記録にありました。
これは新潟県農試の種類試験での記載なんですが、明治30年から31年の間に100種類の供試品種の中から『チンコ坊主』が消えたんです。
消えた品種については「異名同種と思われるものを除く」と記載されているので、消えた『チンコ坊主』は他の86種類のいずれかの異名同種と新潟農試は判断したのでしょう。
しかし残念ながらどの異名同種かは記載がありませんので、86種のどれか・・・というにはあまりにも対象が多すぎます

しかし、新潟農試が発行した「新潟県農業案内」(明治44年)と言う資料の中で『高田早生』と言う品種に括弧書きで「チンコ」との記載がありました
実に乱暴で飛躍的な理論ですが、この『高田早生』が『チンコ坊主』の異名同種ではないでしょうか…と言いたいところですが熟期が違うんですよね…

じゃあ結局何が言いたいのかと言うと
結局異名同種判定が存在して、そちらに吸収されたことだけは間違いないので、長野県でも同様の処理がされているんじゃないかと言うことです。
比較してみたいんですが、この頃は特に記録がゴミ…役に立たない情報(収量、抽象的な特徴の羅列、統一されていない単位)が多くてですねぇ…
苗の成長具合、苗の葉の色具合、籾・玄米別に容積と重量それぞれの収量…みたいな、品種の判別をするには正直アテにならないものだったり、分げつ量多・中・小のような(判別できん)…

愚痴終わり


新潟と長野の比較試験に上がり、滋賀県の在来品種調査を見ても、それなりの作付面積があったはずが大正に入ると急にその名前を見なくなった『チンコ』。
その実、世の中の人の心が汚れてしまった()ために、異名同種に依ってその名前を変え、つつましく生きていたのかもしれません。
『信州金子』もただ名称を変えただけだけだとしたら、あれもつまり『チンコ坊主』ですよね。(これが言いたかっただけ)


ちなみに『信州金子』は葉長100cm超え、出穂8月下旬、登熟も10月下旬と、どちらかと言うと滋賀県の『珍子』寄りの試験結果が残っています。
やはり新潟県の『チンコ坊主』は唯一無二、新潟県の在来品種なのでは…なんてことも想像できますね。

8.つまるところ、『チンコ坊主』の起源は

通説では北海道内のみの視点「北海道の『坊主』から選出された『チンコ坊主』」というストーリーになっていますが、そもそも初期の北海道の稲作は本州から持ち込んだ品種が大半です。
そして前述してきたように、本州内に「珍子」をはじめとして『チンコ坊主』という品種も、少なくとも新潟県には確実に存在したんです。
これらのいずれかの品種が持ち込まれて、北海道の気候に適して広く普及した可能性も十二分にあるでしょう。

滋賀県内でも広く『珍子系』品種が栽培されていたところを見るに、「珍子系は北陸近辺独自の品種」とはとても言えませんが、数少ない形態の情報から判断するに、どちらかというと新潟県系列の『珍子』がより近しいものに見受けられます。
さらに、北海道のような冷涼な気候に適したならば、同様に冷涼な環境が想定され、特に多数の入植者が居た新潟県が有力ではないのかと言うのが、墨猫の私見です。

その『チンコ坊主』自体は長野県発祥かもしれませんが…試験場が育成した品種ならいざ知らず、民間の伝聞は確定させることは不可能でしょう。
それこそ明治期に誰かが研究していれば確定もしたのでしょうが…当時の人もまさかこんなことで話題に上がるとは思いもよらないかったでしょうね。


9.まとめ (+α『こんぎょく!』)

北海道にはなんと言っても有名な水稲品種『坊主』があることから、通説ではこの『坊主』からの選出・変種では無いかとされている『チンコ坊主』
『チンコ坊主』が、広く知られる記録の中で明確に大規模栽培されたのが、これも北海道だけということで、平成~令和現代においては「北海道独自の品種」のような扱いをされていますが、少なくとも同名の品種が本州北陸近辺の新潟県、長野県に存在しており、もしかすると本家大元はこちらかもしれません。

『チンコ坊主』そのものでなくとも、北陸同地には『珍子』系品種が有望視されており、これを持ち出して北海道に移住した新潟・長野の農民が、上川で変異種を見いだしたものなのかもしれません。

ただし『珍子(チンコ)』という単語は、品種に付随する名称として広く「小さい」「珍しい」と言ったニュアンスで使用されていたこともまた確かです。
やはり通説の通り、北海道で生まれた『坊主』の変種・・・かもしれませんね。
北海道農業試験場50年記念誌でも「チンコ坊主は来歴不詳坊主から?」なんて疑問形で書かれている(本当に?が書いてある)くらいなのでやっぱり結論は出ないのでせう。

でも新潟県民の皆さん
『コシヒカリ』起源説は訴えても一笑に付されてしまうくらい勝ち目の無い戦いになりますけども
『チンコ坊主』起源説唱えるなら、ワンチャンどころか十分勝ち目はありますよ!!!
だって新潟県には稲品種『金玉』もありましたからね!(最後にタイトル回収発言)


新潟県の『金玉』『珍子』が明治28年京都で開催された第4回内国勧業博覧会審査報告で品質やや善良として受賞した品種一覧にあり。
ちなみにここまで読んだ方は心が清らかだから、当然読み方もわかってますよね。

そう
当然「きんぎょく」ですよね!(大麦品種に倣い)
は?きんt…ソンナワケナイデスネ

10.【蛇足番外編】 『農林9号』交配親『早生チンコ』

上川農事試験場、北海道農事試験場上川支場、いずれかで育成された水稲農林Noの片親が『早生チンコ』です
これが公式では在来『チンコ坊主』の変異種ではないかと推測されています。

お約束ですが、『農林9号』育生の報告書にもこの『早生チンコ』の来歴については一切触れられておりません。
さて
ここまで幾度となく述べてきましたが「チンコ」という用語はイネ品種においては固有名詞では無く非常にありふれて使用されるものです。
『チンコ坊主1号』を育成した上川農試が使用しているんだから『早生チンコ』は『チンコ坊主』の変異種、と言う理論も筋が通っていますが、これは人間で言えば「楽太郎と承太郎」と言う名前だけを比較して「太郎が共通だからこの二人は兄弟か親子だろう」と言うくらい乱暴なもの(主観)です。

新潟県のチンコ派()である私としては、これも新潟県由来の『チンコ早稲(早生)』であろうと主張…したいところなんですが
この北海道の『早生チンコ』は他のチンコ坊主系品種と明らかに一線を画していまして、まず芒がごくまれながら短いものがあり、稃先色が赤褐色という明確な特徴があり、さらに分蘖数も16本前後と少ない(チンコ坊主系が25本前後)のです。(「早生」と付くぐらいなので出穂期も早いのですが、この程度は変化の内と言えることでしょう。)
芒も稃先色も無く、籾が暗褐色で分蘖も多いとまったく特徴の食い違っている『チンコ坊主』からこの品種が出たなら、ちょっとした変異ではなく何かとの交雑種とみるのが自然でしょう。
となるとどんな品種でも『早生チンコ』の変異(交雑)元たりえるということです。(これもだいぶ暴論)

上川農試の試験記録でも見られれば何か書いているかもしれませんが、北海道立図書館からの複写取り寄せくらいしか今は方法がないようですし
そもそもその上川農試の記念誌等で特段記載がないと言うことは、そもそも記録がない可能性が高そうですし。
どうしようおすし。

つまるところ言いたいのは
『チンコ』は北海道固有の品種というわけではないので、移住者も多く、豪雪・冷たい雪解け水と厳しい環境の新潟のいろんな『チンコ』が北海道に渡っていた可能性を心の片隅において頂けたらなぁと言う次第です。(長野か福井かはたまた他のチンコかも・・・)


11.蛇足番外編2 『厚別糯』(こうべつもち)

『厚別糯』
明治30年(1897年)頃、北海道白石村の中沢八太郎氏が札幌興農園から購入した糯品種の中から選出した穂数型の品種である。
別名を『チンコ糯』という。(うん、なんで?)

何度でも言いますが稲品種で「チンコ」という名称自体は珍しくはないものの、大正時代頃から急速にその姿を消しているのに、なぜ北海道はこうも残っていたのか。
というかなぜ『チンコ糯』なのか気になりません?



12.予備(追加ネタ見つけた時に)



13.予備2(追加ネタ見つけた時に)



参考文献(敬称略)

〇史料に見る近江の稲・米(3):小川正巳
〇明治30年 米麦栽培書全(東京博文館蔵版):農学士 楠原正三著
〇農事試験成績明治29~32年:農商務省農事試験場
〇大正13年 北海道ノ米ニ関スル調査:北海道庁産業部
〇事業報告 昭和4年度:北海道農産物検査所
〇事業成績 昭和8,10~13年度:北海道農産物検査所
〇検査要覧 昭和12年:北海道農産物検査所
〇北海道統計例規 : 北海道統計協会
〇北海道農業展開の実証的研究 (農業研究資料第30号):北海道立農業研究所
〇北海道における冷害の実態と対策:北海道開発局局長官房開発調査課
〇北海道立上川農業試験場百年史:上川農業試験場
〇「水稲農林九号ニ就テ」「水稲農林二十号ニ就テ」:北海道農事試験場
〇昭和5年 地方産米に関する調査:農林省農務省
〇新潟県農業案内:新潟県農事試験場
〇農事試験成績報告 明治30,32,40年:新潟県農事試験場
〇農事試験成績 明治35,37,45年:長野県農事試験場
〇長野県農業試験場六十年史:長野県農業試験場
〇明治40年農事試験成績:栃木県農事試験場
〇昭和2年業務功程:群馬県立農事試験場
〇大正6~8年業務功程:岡山県農事試験場


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