2022年6月26日日曜日

【復刻酒米品種・『強力』系】鳥取県の『強力』・兵庫県の『但馬強力』の正体は?


『強力』系品種の由来を調べました

大正期に育成・栽培された純系淘汰育成品種が、特に平成になってから日本酒の付加価値の一つとして、数多く復刻され、使用されています。

その中で兵庫県では「但馬強力」だとする品種が、鳥取県では「強力」だとする品種がそれぞれ復刻栽培され、日本酒に使用されているようです。

”強力”と書いて”ごうりき”と読む共通性を持つこの2品種。
各酒蔵やら酒販店やらがそれっぽい由来を書いて売ってはいるんですが…それ本当?と疑うのは今までの日本酒業界の酒米品種説明のあまりの杜撰さと稚拙さを見せつけられてきた当方としては当然のこと…

その実、この『強力』系2品種の正体はなんなのか?
大正・昭和当時の記録を元に辿ってみました。


目次





各種『強力』の由来はネットでどう書かれている?(令和4年6月現在)


①在来種『強力』

これについては概ね次のようにされており、多少の表現の違いはあるもののほぼ同一でしょう。

”明治24年に鳥取県東伯郡の渡邊信平氏が県内外から21種類の在来種を収集し、その中から選抜・命名”

正直こういう伝聞の類いは検証することも出来ませんので、こういうものだろう、程度に捉えておきます。
明治中期以降に鳥取県内で栽培されていた在来種のようですね。



②鳥取県の「強力」(平成)

これについては1989年(平成元年)に中川酒造(鳥取市)が復活させたようです。
公式ホームページを覗くと次のような記述がありました。

”(前略)同酒造の中川盛雄社長が鳥取大学にわずかに残っていた種もみを譲り受け、1989年に復活。”

「1989年」とあるものの、同HP内では1988年(昭和63年)から栽培を再開しているような記述もあるのですが…(このあたりは表現の差異でしょうか?)
細かい栽培開始年は兎も角、鳥取大学で保存されていたモノを譲り受けた様子です。

結論から言えばこれは鳥取県で1921~1945年(大正10年~昭和20年)に奨励品種になっていた『強力2号』のようです。
鳥取農試の試験記録でも、兵庫農試の「酒米を中心とした水稲遺伝資源の DNA多型」の論文内でも『強力2号』として出てくるので、ほぼ間違いは無いでしょう。
ではその『強力2号』の由来は?というと微妙に違う説がズラズラ書かれていまして…

  • (前述)後に鳥取県立農事試験場で純系選抜を行い強力1号から強力 10号を仕立て、そのうち1号と2号が奨励品種として採用された。強力1号が食用として、強力2号が心白の発現の良さから酒米として有名になり(後略)(千代むすび酒造)
  • 1915年から1921年まで、鳥取県農業試験場が系統分離試験を重ね、原種から12号までの13系統の試験を行った結果、強力1号と2号を1921年から1945年まで鳥取県の奨励品種として採用していた。(Wikipedia)
  • (前略)鳥取県立農事試験場では大正 4(1915)年この品種を 10 系統分離し,1921 年に強力2号として奨励品種に採用されている。(美味技術研究会誌)
  • 1915年に鳥取県農試にて強力1号、強力2号が純系分離された(酒米ハンドブック)

と、このような書き方をするからにはもう分かっているかもしれませんのでもう言ってしまいますが、これ全部誤りです。
なんで一つもまともな記載しているモノがないんだと愚痴の一つもこぼしたくなりますが…
『強力2号』の復活に関わった西尾隆雄氏は元鳥取農試場長だそうで、美味技術研究会誌の記事にも著者として載っているんですが、それでいてなんでこうも間違いを書けるのか…本当に不思議です。(今回の調査、鳥取農試所有の資料で私も行ったんですが?)
愚痴が過ぎましたが、詳細は後述します。



③兵庫県の「但馬強力」(平成)

兵庫県丹波市市島町(現丹波市)の西山酒造(1998年~?)や、同県朝来市山東町矢名瀬町の此の友酒造(2017年~?)と各所で復刻栽培・酒造への使用が行われているようですが、これらは兵庫農試から種子の提供を受けているようです。
そんな『但馬強力』の由来について酒蔵側が書いている内容は概ね以下のようなものです。

”鳥取県の在来種であった強力を1925年(大正14年)兵庫県立農事試験場但馬分場が取り寄せ、それを品種改良(純系選抜)して1928年(昭和3年)に育成。”

なるほど兵庫農試育成の品種となれば、兵庫農試が保存しているのも頷ける話です。
…が、『伊豫辨慶1号』を採用した、と言う話をいつのまにか「自分たちが育成した」とすり替えていた兵庫県です。
これが本当かどうか記録を確かめる必要があるでしょう。
ちなみに兵庫県酒米振興会の発行した「兵庫の酒米」(昭和36年発行)の中でも、『但馬強力』育成の由来として似たような記述があります。

”大正十四年に在来種の「強力」を取り寄せて、但馬分場において純系淘汰の結果「但馬強力」の品種名をつけ、昭和三年に奨励品種に指定されたものである。”

まぁ『伊豫辨慶1号』育成経過誤情報の震源地もコレなので、いよいよ怪しいのですが。


追うべきは鳥取県立農事試験場の『強力』育種

ネットの記述が間違いであることは既に述べてしまいましたが、『強力2号』が鳥取県立農事試験場で育成されたことは間違いの無い事実です。
そして兵庫県立農事試験場但馬分場も、「鳥取県から『強力』を取り寄せた」となっている以上、鳥取農試が関わっている可能性は高いはずです。

では、大正時代における実際の鳥取農試の『強力』関係の記録はどのような育種経過を辿っていて、どの系統が採用されたのか、その経過を追ってみましょう。
そしてそこから兵庫県立農事試験場に渡った『強力』がなんなのかも読み取れるのではないでしょうか?

ということでまずは鳥取県立農事試験場の『強力』関係育種記録について、業務功程を元に追ってみましょう。

鳥取農試における『強力』純系淘汰の経過

鳥取県立農事試験場の「業務功程」は、なぜかは分かりませんが大正4年(1915年)以降のものしか見つけられていません。
しかし丁度この年から純系淘汰選抜を開始したようで、上手いこと全ての記録を追うことが出来ました。

鳥取県内の主要品種に対して純系淘汰による正式な育種が前述したように1915年(大正4年)から開始され、1940年(昭和15年)を最後として翌年からは「純系淘汰」関連の記載が業務功程から消えています。
このおよそ26年間の間で『強力』に関する純系淘汰育種は合計8回に渡って行われていました。
その全ての経過を示すと以下のようになっています。

【品比試】=品種比較試験
【酒米選試】=酒米品種選抜試験
※業務功程の記述に準拠していますので系統数や系統名の不一致が見られる部分もあります。
※(第○回)は管理人が説明する便宜上独自に付けた回数です

原種圃T4予備
純系淘汰
(第1回)
T4開始
(第2回)
T5開始
(第3回)
T9開始
(第4回)
T10開始
(第5回)
T11開始
(第6回)
S3開始
(第7回)
S11開始
(第8回)
1915年
大正4年
強力129株

13系統
3,594株

選抜数
126株

T5供試
59株
1916年
大正5年
強力13系統

3系統
(7,8,12号)
62系統

20系統
鳥取農試
淘汰全体
約5,000

380系統
選出
1917年
大正6年
強力【品比試】
改良強力一號
改良強力二號
改良強力三號
20系統

5系統
(2,9,13,
14,16)
100系統

20系統
1918年
大正7年
強力【品比試】
改良強力一號
改良強力二號
改良強力三號
【品比試】
改良強力四號
改良強力五號
改良強力六號
改良強力七號
改良強力八號
20系統供試
※水害被害
で判定不可
1919年
大正8年
強力【品比試】
改良強力一號
改良強力二號
改良強力三號
【品比試】
改良強力四號
改良強力五號
改良強力六號
改良強力七號
改良強力八號
20系統

4系統
(5,6,
12,15)
1920年
大正9年
強力【品比試】
強力二號
強力三號
【品比試】
強力九號
強力十號
強力一一號
強力一二號
21系統
選抜
1921年
大正10年
強力一號
強力二號
【品比試】
強力十號
強力一一號
21系統

12系統
18系統
選抜
1922年
大正11年
強力一號
強力二號
?【品比試】
強力十號
12系統

5系統
18系統

7系統
【品比試】
強力十ノ4
(?)
11系統
選抜
1923年
大正12年
強力一號
強力二號
?【品比試】
強力十號
【品比試】
強力十2
強力十13
強力十15
強力十20
強力十21
7系統

3系統
6系統
選抜
1924年
大正13年
強力一號
強力二號
?【品比試】
強力十號
【品比試】
強力十ノ12
強力十ノ15
強力十ノ21
【品比試】
強力十一ノ4
強力十一ノ17
強力十一ノ37
6系統

2系統
1925年
大正14年
強力一號
強力二號
?【品比試】
強力十ノ15
強力十ノ21
【品比試】
強力十一ノ17
【品比試】
強力十二ノ5
強力十二ノ7
1926年
大正15年
強力一號
強力二號
?【品比試】
強力10ノ15
強力10ノ21
【品比試】
強力11ノ17
【品比試】
強力12ノ5
強力12ノ7
1927年
昭和2年
強力一號
強力二號
?【品比試】
強力10,15
強力10,21
1928年
昭和3年
強力一號
強力二號
?【品比試】
強力10,15
【品比試】
強力11,17
20系統
選抜
1929年
昭和4年
強力一號
強力二號
【品比試】
強力10ノ15
【品比試】
強力11ノ17
20系統

12系統
1930年
昭和5年
強力一號
強力二號
【品比試】
強力10ノ15
【品比試】
強力11ノ17
12系統

2系統
1931年
昭和6年
強力一號
強力二號
【品比試】
強力10ノ15
【品比試】
強力11ノ17
1932年
昭和7年
強力一號
強力二號
【品比試】
強力11ノ17
1933年
昭和8年
強力二號
1934年
昭和9年
強力二號
1935年
昭和10年
強力二號
1936年
昭和11年
強力二號31系統
選抜
1937年
昭和12年
強力二號31系統

4系統
1938年
昭和13年
強力二號
1939年
昭和14年
強力二號【酒米選試】
強力12,1
強力12,2
強力12,3
強力12,4
1940年
昭和15年
強力二號【酒米選試】
強力12,1
強力12,2
強力12,3
強力12,4
1941年
昭和16年
強力二號純系選抜試験がなくなる


まず1915年(大正4年)の時点で既に『強力』が原種(奨励品種)指定されています。
そして『強力1号』『強力2号』原種指定されているのが1921年(大正10年)です。

1921年(大正10年)に原種指定されたと言うことは前年の1920年(大正9年)には少なくとも系統となって、品種比較試験等に供試されていると考えるのが自然です。
となると必然的に候補は絞られ、その時点で品種比較試験に供試されているのは予備純系淘汰(第1回)の『(改良)強力2号』『(改良)強力3号』、そして大正5年開始(第3回)の『強力9号』『強力10号』『強力11号』『強力12号』、これらに加えて忘れていけないのは原種指定の『強力』、と、合計7品種が候補に挙がります。

この時点で
千代むすび酒造が言う「1~10号を仕立てたうちの1、2号が採用された」
美味技術研究会誌が言う「大正4年に10系統を分離して~」
酒米ハンドブックの「大正4年に強力1号、2号が純系分離」
いずれも年代や系統数が合っていないことが分かるのではないでしょうか。(育成系統は最大でも1~12号で『強力2号』が初めて確認できるのは1921年(大正10年)

Wikipediaがいう「原種~12号のうち1,2号を採用」が近いようにも見えますが、この文脈だと「1~12号の中の1号と2号が採用された」かのように読み取れます。
しかし1920年(大正9年)の時点で『(改良)強力1号』は既に破棄されていますのでこれもまた整合性がありません。


話を戻すと、1921年(大正10年)の『強力1号』『強力2号』指定後も純系淘汰育種は継続され、品種比較試験に供試される系統もまばらにありますが、結局2品種以外は優秀な系統を見いだせなかったのか、1932年(昭和7年)に第5回選抜の『強力11ノ17』が品種比較試験に供試されたのを最後に原種指定の『強力2号』しか供試されなくなりました。
なお、スペースの都合上記述を省略していますが、1926年(大正15年)に開始された多肥作品種比較試験にも純系淘汰育種系統が供試されており、『強力』系統も見受けられますが、こちらも1932年(昭和7年)に『強力11ノ17』が供試されたのを最後に、あとは原種指定された『強力2号』のみの供試となっています。
またこの1932年(昭和7年)は『強力1号』が原種指定されていた最後の年になり、これ以降は『強力2号』のみの指定となります。(その『強力2号』は1945年(昭和20年)まで継続)

この4年後、1936年(昭和11年)に最後の『強力』純系選抜育種が行われていますが、これも1940年(昭和15年)の酒米品種選抜試験に供試された4系統を最後に試験に供試されることがなくなってしまったようです。


原種指定の『強力1号』及び『強力2号』の特定

ここで本来の目的である『強力2号』の育種経過を追うためには、「どれが『強力2号』になったのか?」を特定する必要があります。
ついでと言ってはなんですが、同年に原種圃に現れている『強力1号』もどの選抜系統なのでしょうか?

繰り返しの事実確認になりますが
鳥取農試で『強力1号』及び『強力2号』が初めて確認できる、もとい原種(奨励品種)指定された1921年(大正10年)までには第1回~第3回の3段に及ぶ『強力』関係の育種が行われていますが、原種指定の前年まで試験継続されているのは前述したとおり『(改良)強力2号』『(改良)強力3号』『強力9号』『強力10号』『強力11号』『強力12号』の6品種です。
そして『強力1号』『強力2号』の候補として忘れていけないのは、これまで原種指定されてきた『強力』です。
ちなみに業務功程にはどの品種をどのように原種指定したか全く記載がありません。


そんな状態ながらこれも墨猫大和の結論から申し上げますと

1921年(大正10年)に元原種指定の『強力』が『強力1号』と改名
同年、『(改良)強力2号』が『強力2号』として新規原種指定

となります。
よって原種指定された『強力1号』、『強力2号』の由来を簡潔に書くと以下のようになります。

『強力1号』…大正4年に『強力』として原種指定を受け、大正10年に『強力1号』に改名。
『強力2号』…大正4年に育成開始、大正10年に『強力2号』として原種指定。

結果として「『(改良)強力2号』が『強力2号』」ということにはなりましたが、前述のネットや書籍の記述が果たしてコレを意識して書いているかというとその他情報の整合性がとれていないことからも非常に怪しいです(個人の偏見)

※あくまでド素人の調査結果による推測なので他に何か根拠があれば覆る可能性はあります。


『強力1号』特定の根拠

1921年(大正10年)に元原種指定の『強力』が『強力1号』と改名

この根拠としているのが道府縣ニ於ケル米麥品種改良事業成績概要(大正15年)における原種指定『強力1号』の【1】「改良品種の沿革」及び【2】「改良品種の栽培上有利とする点」の記述です。

【1】まず品種の沿革として”品種比較試験ノ結果大正四年ヨリ奨励品種ニ選定セリ”との記載されていました。

コレを裏付けする記載が大正四年度業務功程にもあり、「(第二)品種試験」では

【意訳】
従来この試験では有望と認める品種を収集し、比較試験の上で不良種は淘汰してきたが、大正四年度はその中でも特に優良と認める11種のみを栽培し、その完全な固有の特性の調査を行うことで後日の品種比較に供試することとする。

となっています。
この「11種」というのがこの1915年(大正4年)時点において鳥取県で原種指定されている
『強力』含む11品種のことです。
明瞭に純系淘汰法による育種と記載されているわけではないですが、収集された『強力』の中からより優秀な個体を選抜してきた過程が読み取れるかと思います。
これ以前の記録がないので断定こそ出来ないものの、1915年(大正4年)に原種指定された『強力』は経年の品種比較試験の結果選定されたものとみて間違いは無いでしょう。

1915年(大正4年)時点で他に完了している純系淘汰育種試験は存在しないので、『強力1号』=『(T4原種指定の)強力』と言えるでしょう。


【2】また、品種の特性として”米ハ中形ノ大粒デ長味ヲ帯ビ品質良好ニシテ酒米用トセラル”と記述があります。

コレを裏付けする記載が大正九年度業務功程にあります。
この年における「品種比較試験」に各品種の玄米形状について記載があるのですが、この年に供試されている『強力」系統の中で『強力(原種)』だけが「中(長)」とされています。
他の『(改良)強力三號』『強力九號』『強力一一號』『強力十二號』は全て「中」となっている中、特徴的な記載が一致していることからより『強力1号』=『(T4
原種指定の)強力』論の裏付けとなるのではないでしょうか。
ちなみに『(改良)強力二號』『強力十號』の玄米形状は「中(園)」です。(フラグ構築)


蛇足として
『強力1号』が登場する1921年(大正10年)は、実は他の鳥取農試原種指定品種にも一斉に「1号」が付与された年でもあります。
1920年(大正9年)時点で原種指定されていた品種は
『奥州』『丸山』『芋釜』『福山』『強力』『亀治』『早大関』
これが翌年1921年(大正10年)になると
『奥州一號』『丸山一號』『芋釜一號』『芋釜二號』『福山一號』『強力一號』『強力二號』『亀治一號』『早大関一號』
となっています。
『芋釜』と『強力』に「2号」が追加された以外は全てに「1号」が付与されたのが分かるかと思います。
明記されているわけではありませんが、この時点で1915年(大正4年)から開始された純系淘汰育種が進行し、後発の優秀な系統が増えるに当たって原種の品種との区別性を図るためにこのような措置を執ったのではないかと思われます。
かと言って『強力』以外の品種については、純系淘汰育成経過を詳細に追ったわけではないので「元々の原種指定品種すべてに”1号"が付いた」と断言は出来ませんが、他品種の育成進度から考えて全てが入れ替わってはいない…ハズ

と、さらに蛇足になりますが、実は少なくとも『奥州』『亀治』『丸山』の3品種に関してはこれ以前の1918年(大正7年)に既存の原種指定と純系淘汰で育成された品種が入れ替わっています。
これは業務功程にも「純系淘汰を完了したものと変える」旨明記されているので間違いの無い事実ですが、この「入れ替え」と「改名」の区別が付かず非常にややこしいですね。

大正7年 『奥州』→『奥州』(中身の品種が入れ替わったけど同名)
大正10年 『奥州』→『奥州一號』(中身の品種は変わらず改名)

この為か後年の鳥取県ですら育成年を間違っている(水稲及陸稲耕種要綱(昭和11年)では『奥州1号』等の育成年が大正10年とされてました)のでプチ注意事項ですね。
道府縣ニ於ケル米麥品種改良事業成績概要(大正15年)では『奥州1号』等の育成年はちゃんと大正7年と記載されていたので、後年間違ったパターンで間違いないと思われます。


『強力2号』特定の根拠

1921年(大正10年)『(改良)強力2号』が『強力2号』として新規原種指定

この根拠としているのは『強力1号』と同様に道府縣ニ於ケル米麥品種改良事業成績概要(大正15年)です
原種指定『強力2号』の【1】「改良品種の沿革」及び【2】「改良品種の栽培上有利とする点」の記述を元に推量しました。

【2】順番を少し変えてまず「改良品種の栽培上有利とする点」ですが、ここでは”一号ニ比シ米ハ丸味ヲ帯ビ心白、適地ニ於テヨク発達シ酒米向ノ良種ナリ”と記述されています。
『強力1号』特定の根拠でも述べたとおり、大正9年の品種比較試験の玄米形状の項目で(改良)強力二號』及び『強力十號』の玄米形状が「中(園)」とされています
(”園”=”円”の旧字体=まる)
『強力十號』については『強力2号』が原種圃設定後も品種比較試験に継続供試されていることからも候補からは外れるでしょう。

【1】「改良品種の沿革」では”大正四年純系分離ニ着手大正十年奨励品種ニ決定セリ”とされています。
原種指定の『強力』が『強力1号』である以上、他の候補は『(改良)強力2号』『(改良)強力3号』『強力9号』『強力10号』『強力11号』『強力12号』なりますが、「大正四年純系分離に着手」という条件が当てはまるのは『(改良)強力2号』『(改良)強力3号』だけです。
同じ大正4年に純系分離に着手した第2回組の『強力4~8号』は1919年(大正8年)を最後に姿を消しており、2、3号同期の『改良強力1号』も同様に姿を消しています。

『改良強力2号』と『改良強力3号』いずれが『強力2号』なのか?
これを判断するに当たって、玄米形状が大正15年における記載と合致しているのが『改良強力2号』であることは既に述べました。

コレに加え、実は1917年(大正6年)に「奨励品種以外の種子配布」についての記述があり、ここで『改良強力2号』の配布量が52合だったのに対して『改良強力3号』はたった7合と少なく、試験場なり農家なりの有望度は『改良強力2号』の方が高かったことが窺えます。
そもそも1916年(大正5年)時点での『強力第12号(改良強力3号)』の評価は「米質佳良で収量は多い方」であったのに対して、 『強力第8号(改良強力2号』は「収量が多い」でした。
微妙なニュアンスの違いですが、何よりも米が不足し、農家の収入増のためにも「多収」が求められる時代柄、米質よりも収量の多さが優先され、結果『改良強力2号』が優先されるであろうことは想像に難くありません。


これにより”原種指定の『強力2号』は『改良強力2号』である”と推定しています。


蛇足ですが、水稲及陸稲耕種要綱(昭和11年)ではこの『強力2号』は「八頭郡から取り寄せた『強力』に由来する」旨が書かれています。
ただ、前述したように『奥州1号』の育成年を間違えていたりと、そのまま素直に信じて良い情報かどうかはなんとも分かりません。


兵庫県の『但馬強力』の由来

鳥取県の『強力1号』『強力2号』の正体が判明したところで、次は兵庫県の『但馬強力』です。
兵庫県酒米振興会震源地と見られる情報では「大正14年に鳥取県から取り寄せた『強力』を純系淘汰開始、昭和3年原種指定」のようですが、当時の兵庫県立農事試験場の業務功程を追ってみると以下のようになっています。

原種圃但馬分場
品種比較
試験
但馬分場
純系淘汰
育種
兵庫農試
本場試験
酒造米
試験地
試験
1919年
大正8年
(試作試験地)
『強力』
取寄先
未記載
1920年
大正9年
なし
1921年
大正10年
『強力』
取寄先:鳥取県
(『穀良都』開始)
1922年
大正11年
『強力』(2年目)
取寄先:鳥取県
「長稈ナルモ有望」
(『改良大場』開始)
(『豊年穂』開始)
1923年
大正12年
『強力』(3年目)
取寄先:鳥取県
1924年
大正13年
『強力』
取寄先:鳥取県
「良好ナリ」
1925年
大正14年
『強力』
取寄先:鳥取県
「大粒種ニテハ強力比較的多収」
記載漏れ?
1926年
大正15年
『強力』
取寄先:鳥取県
『強力』
淘汰2年目
25系統
形質調査
1927年
昭和2年
『強力』
取寄先:鳥取県
『強力』
淘汰3年目
朝来郡由来「朝」4系統
鳥取県由来「分」8系統
鳥取県由来「鳥」2系統
1928年
昭和3年
但馬強力『但馬強力』
取寄先:分場
朝2系統
分5系統
鳥2系統

対照『但馬強力』
品種比較試験『但馬強力』
地方委託試験『但馬強力』
品種比較試験
『但馬強力』
1929年
昭和4年
但馬強力『但馬強力』
取寄先:分場
朝2系統
分1系統
鳥1系統

対照『但馬強力』
品種比較試験『但馬強力』
対肥料用量試験『但馬強力』
地方委託試験『但馬強力』
品種比較試験
『但馬強力』
1930年
昭和5年
但馬強力 朝1系統
分1系統

対照『但馬強力』



兵庫県酒米振興会が書いている「大正14年からの純系淘汰」はどうなっているかというと…
その通り『強力』の純系淘汰試験自体は、兵庫県内の朝来郡と鳥取県から取り寄せた上で確かに行われていたようです。
原種指定された1928年(昭和3年)時点でいまだ9系統の選抜継続中と育種が完了しておらず…と言うよりそもそも対照用品種に『但馬強力』が用いられているのですから、この純系淘汰に用いられているのは『但馬強力』とは別の系統達ということになります。
この大正14年開始の純系淘汰育種で『但馬強力』が育成されたというのは『伊豫辨慶1号』と同様に酒米振興会の記述間違いでしょう。
『但馬強力』の原種指定時期と『強力』の純系淘汰試験の時期だけを見比べるような杜撰な調査でもして書いたのでしょうか?と嫌みのひとつも言いたくなりま(略
他県が育成した品種を採用しただけなのに、さも兵庫農試が育成したかのようにするこのムーブは意図的なのか過失なのか…?

では他に参考となる由来は?ということで
1936年(昭和11年)に発行された「水稲及陸稲耕種要綱」では『但馬強力』の由来について以下のように記述されています。

”大正10年鳥取県ヨリ取寄セ、本県農事試験場但馬分場ニ於テ品種比較試験ヲ行ヒタル結果、優良ト認メ、昭和3年奨励品種トセルモノナリ”


そしてさらに昭和4年3月に発行された兵庫県立農事試験場の「米麦原種一覧表」に丁度原種採用されたばかりの『但馬強力』の記載がありました。
「育成法」として、材料は『強力』、育成手段は「品種比較試験」。(これについて別品種で「純系淘汰」と記載しているものもありますから、兵庫農試はちゃんと純系淘汰と品種比較を区別していると言うことになるでしょう)
試験着手年度は大正10年、原種採用年は昭和3年、取寄先は鳥取県です。


これを業務功程とすり合わせてみると…
まず但馬分場における『強力』の品種比較試験が1921年(大正10年)から始まっています。(1919年時点はまだ「試作試験地」なのでノーカウントで)
これは取寄先が鳥取県と明記され、『但馬強力』が原種指定される1928年(昭和3年)まで継続しており、整合性があります。
1925年(大正14年)以前にしても、但馬分場が行っていた純系淘汰試験はきちんと別途整理され記載されており、所定の期間に純系淘汰が行われたのは『穀良都』『改良大場』『豊年穂』の3品種です。
なおさら「『但馬強力』は但馬分場が純系淘汰で育成した」という酒米振興会発行「兵庫の酒米」の記述は間違いであると言えるのではないでしょうか。
1931年(昭和6年)以降は資料の確認が取れていませんが、『但馬強力』は奨励品種指定が1934年(昭和9年)までと短いので、まさかこの後わずか2~3年の間に純系淘汰した『強力』との入れ替えがあったりは…しないとは思いますが、この調査は今後の課題とします。



なお、ここからは憶測の部類になるのですが
これは品種比較試験の中でも本試験ですので、雑多な在来種などではなく鳥取農試からきちんと固定された品種を取り寄せたと考えるのが自然です。

同時期、鳥取県から取り寄せられる確かな『強力』系品種は原種指定されている『強力』(後の『強力1号』)しかないと思われます。
兵庫農試は他県から取り寄せた品種名の「号」の記載を省略することは多いですが、数字が付記されていれば必ず記載していたので、仮に『強力2号』などを取り寄せていたのなら「強力二」などと記載するはず…『強力』と記載したのならば原種指定の『強力(後の強力1号)』ではないでしょうか。(と、どこまでもいっても推測なのですが)


『但馬強力』は兵庫農試の育成品種ではなく、鳥取農試育成の『強力(後の強力1号)』を大正10年に取り寄せ、但馬分場による品種比較試験の上、優良と認め昭和3年に改名の上で奨励品種に採用したもの

以上の結論で概ね間違いないのではないかと思われます。

蛇足 特殊な選抜『強力2号』


『強力2号』が予備純系淘汰(第1回)から選抜されたものであることは前述しましたが、なぜこれが「予備純系淘汰」と呼ばれているかというと、これは素材収集が他と違ってやや特殊だったことから来ています。
第2回~第8回までは鳥取農試が配布していない『強力』を雑多に数百~数千ランダムに集め、その中から選抜するというスタイルで、この時代のスタンダードな方法です。
しかしながらこの第1回に関しては、大正3年度に鳥取県農会が主催した「稲作増収品評会」に出品された品種の中から収集されたものを対象に行われていることが明記されています。

この理由として「改良期間を1年縮めるため」とされており、これは”増収品評会”というくらいですから、おそらく選り抜きの農家が各々きちんと管理した(固定度の高い)品種を使って出品しているであろうことが想像できます。
選抜当初からこれらを「純系種子」と呼んでいることからも、一般農家が一般に栽培しているモノとはひと味違った系統と鳥取農試は認識していたものと思われます。
鳥取農試は試験2年目の1916年(大正5年)時点ではこの予備純系淘汰組に対して「厳密な選抜をしたものではなく、供用数も少なく、著しい改良効果があるとは言えないかもしれない」(抜粋・意訳)とずいぶんと自信なさげな記述をしていますが、『強力』に関してはここから選抜された『強力2号』を上回る系統はこの後8回にたる選抜でもついに現れず、先の『強力1号』が1932年(昭和7年)が最後だったのに対して、1945年(昭和20年)までの長い期間奨励品種になっています。


「公共機関に育成されて一律化された品種より在来種の方が素晴らしい」という
種苗法改正の陰謀論がらみで妙に在来種に傾倒している人たちが多く見られるようになった令和現在ですが
この『強力2号』の例に見られるように、明確な目的で選抜された品種を上回る個体は「在来種」という雑多なカテゴリーから見つけることはなかなかに困難と言うことでしょうか。


まとめ

☆平成以降鳥取県で復刻栽培されている「強力」とは


鳥取県農事試験場が育成した『強力2号』
大正4年に育成開始し、大正10年に育成完了(奨励品種に採用)。
そこから昭和20年まで奨励継続。




☆平成以降兵庫県で復刻栽培されている「但馬強力」とは


鳥取県農事試験場が育成した『強力1号』について、兵庫県立農事試験場但馬分場が品種比較試験の結果奨励品種として改名の上で採用した『但馬強力』
鳥取県農事試験場では大正4年に奨励品種採用、ただし昭和7年を最後に奨励品種外。
兵庫県農事試験場但馬分場には大正10年に渡り、品種比較試験の結果昭和3年~昭和9年の間奨励品種に採用。




幾分推測の域を出ないものではありますが、是非現存している資料を基に反論・補足等ありましたらコメント等ください。


参考文献

〇鳥取県立農事試験場業務功程:大正4年~昭和22年度
〇兵庫県立農事試験場業務功程:大正8年~昭和5年度
〇米麦原種一覧 昭和四年三月:兵庫県立農事試験場
強力復活:中川酒造
〇歴史的強力(ごうりき)米の呼び込みと美味な地酒:美味技術研究会誌
〇水稲及陸稲耕種要綱:大日本農会
〇酒米ハンドブック



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〇公式(育成した農業試験場)でも育成経過間違えてるんですよ・系

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