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2022年12月10日土曜日

【酒米】~強力1号(強力)・但馬強力~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

系統名
 『-』
品種名
 『強力1号(強力)』※兵庫県の産地品種銘柄は「但馬強力」で登録
育成年
 『大正4年(1915年) 鳥取県立農事試験場』
交配組合せ
 『在来種強力の中から選出』
主要生産地(平成~令和現代)
 『兵庫県』
分類
 『酒造好適米』※現代の区分による

酒米品種「強力1号(但馬強力)」の擬人化イラスト
我が強力じゃ、ん…いや今やそれは小妹のほう、か。
ならば…うむ、我は”但馬強力”じゃて。



※管理人独自研究が多く含まれます※

どんな娘?


鳥取の強力姉妹の長女。

妹と同じく長身・すっきりとした美人。
容姿も妹と瓜二つながら、”お山”の大きさでわずかながら負けていることは密かに気にしている…とかいないとか。(いやゆうてさほど差は無いと思うんじゃて(本人談))

妹である強力2号と離れた地ながらも奇しくも同じ平成に復刻したが、本人らに特に感慨は無い様子。
ちなみに同じ兵庫県で復刻された伊豫辨慶1号とは鳥取・兵庫両県においての顔馴染みだが、鳥取県では「強力1号と辨慶1号」として、兵庫県では「但馬強力と辨慶」としての間柄だったため、互いの名を呼ぶときは多少混乱も見られる。

優しく人と接し、物腰も柔らかい妹と比較して、表面上の話しぶりは同じなのだがグサリと人に突き刺さるようなキツい物言いをすることがある。



概要


兵庫県で復刻栽培されている『強力1号』もとい『但馬強力』の擬人化です。
"但馬強力"と書いて”たじまごうりき"と読みます。

現代では「兵庫農試但馬分場が育成した”但馬強力”」なんてことが広く言われていますが、『但馬強力』は鳥取県の奨励品種『強力1号(強力)』の異名同種です。


復刻品種毎度恒例で、『強力』は特に酒造業界(と、採用機関の兵庫農試)の情報発信が雑すぎて間違った情報発信が多々見受けられる有様です。
また、一番有名で広がっていると思われる「酒米ハンドブック」ですら間違っているんです…繰り返しになりますが兎にも角にも「兵庫農試但馬分場が育成した」間違いです。
(詳しくは後述の育種経過にて)


現在「但馬強力」と呼ばれている品種は、兵庫県農林水産技術総合センターから譲り受けて復活させたと言われているようなので、兵庫県で昭和3年(1928年)に奨励品種に採用され昭和9年(1934年)を最後に姿を消した『但馬強力』かと思われます。
そしてそれは鳥取県農事試験場が選抜の上『強力』として大正4年(1915年)に原種指定、そして大正10年(1921年)に改名された『強力1号』の異名同種と思われます。


鳥取県の在来品種『強力』は、明治24年(1891年)に鳥取県東伯郡の渡邊信平氏が県内外から21種類の在来種を収集し、その中から選抜・命名した個体が始まりとされています。
その後鳥取県内で普及したモノを県農事試験場が収集し、奨励品種採用や純系淘汰育種を行い、『強力(後の『強力1号』)』や『強力2号』が育成されました。

『強力(1号)』は大正4年(1915年)から原種指定、大正10年(1921年)に『強力1号』に改名、その後昭和7年(1932年)を最後に原種圃から姿を消しています。
妹の『強力2号』は大正14年(1925年)には種子配布量で姉の『強力1号』を抜き、原種圃で確認できる最後の年は昭和20年(1945年)となっています。
『強力2号』に関してはその後数年で栽培が途絶えたとされていることが多いようです。

これら『強力1号』『強力2号』両品種は、少なくとも大正末期には鳥取県内の水田面積の約30%(約10,214.75町歩:2品種合計)を占めるなど一時代を築いたわけですが、先に『強力』として原種指定されていた後の『強力1号』について、兵庫県農事試験場但馬試験場が取り寄せ、優秀と認めて採用され、独自の名称を付けられたものが『但馬強力』となります。



”昔は食用米の『強力1号』(つまり『但馬強力』)、酒米の『強力2号』として普及”とか言ってる酒蔵もあるようですが…区別されていた様子はありません。
現にこのように『但馬強力』は兵庫県で酒造米として採用されているわけですし…?
何を根拠に言っているのかが不明なのでなんとも言えませんが。

兵庫県における『但馬強力』としての評価は(昭和4年時点)
試験地における早生、とされながら熟期がやや遅いともされているので中生寄りと評価されていたとも受け取れます。(鳥取県では「中生」)
稈長は約135cm程度で穂長は約21.5cm、穂数は約11本の偏穂重乃至穂重型品種です。
鳥取県の各種試験時でも『強力2号』とほぼ変わり無い様子でしたが、兵庫県では若干稈が長いように見受けられます。
長稈でかつ穂重型、つまり穂が重いため、耐倒伏性が弱いことが推定されます。
収量は2.889石(3ヶ年平均)とされているので、単純な重量換算で430kg/反ほどでしょうか。
大正14年時点の評価で『強力2号』が『強力1号』に比して7.5%の増収であるとされていましたが、兵庫県における『但馬強力』の結果だけを単純に見ればそれほど差は無いようにも思えますが…こういうものは単純比較出来ないのでなんとも言えません。
米穀に関して具体的な数値の記載はありませんでしたが「粒型大」「心白多」「品質上」と評価されていました。



育種経過


鳥取県農事試験場では大正4年(1915年)に経年品種比較してきた11品種を原種指定します。
『茶早稲』『奥州』『丸山』『皇國』『福山』『芋釜』『福吉』『青木』『亀治』『早大関』そして『強力』です。
この『強力』らについては明確な純系淘汰試験が行われたものではありませんが、経年選抜により優秀な固体を選出・固定してきたものと推察されます。
その”経年選抜”をいつから行ってきたかは不明ですが…
まず大正4年より古い試験報告については、明治39年(1906年)時点のものまでしか見られていません。そしてその明治39年時点では「栽培法の試験」のみで品種改良について記載がありませんでした。
明治39年時点ではまだ品種改良が始まっていないのならば、経年選抜は明治40年以降のいずれかの時期~大正3年の間で行われたものと思われます。(単に試験報告に記載が無いだけの可能性もありますが)

鳥取農試ではこの原種指定を行ったこの年から本格的に品種改良試験を開始し、強力系統としては『強力2号』が大正10年(1921年)に育成完了・原種指定を受け、同年原種指定されていた『強力』も『強力1号』と改名され、鳥取県の主力品種として普及していきます。


この『強力』を取り寄せて品種比較試験を行ったのが兵庫県農事試験場の但馬分場です。
と言うことで舞台は兵庫県に移るのですが、少しばかり時間を遡ります。
兵庫県農事試験但馬分場が正式に設置されたのは大正10年(1921年)のようですが、少なくとも大正8年(1919年)の時点で「但馬試作地試験」の記録項目がありました。
その大正8年の但馬試作地における品種比較試験(本試験)で、『強力』が供試されています。
ただしこれは取寄先欄が空欄で(他品種では取寄先記載されているものもある)ことから、兵庫県内で普及していた雑多なものを試験的に栽培試験したかなにかではないかと推測されます。
というのも翌年大正9年(1920年)の同試験で『強力』の記載は無くなっていました。

そして但馬分場が設置された大正10年(1921年)、品種比較試験に鳥取県から取り寄せた『強力』と『奥州』の2品種が供試されています。
この時点で鳥取県から兵庫県に渡っていたことから、大正9年時点で鳥取県で原種(奨励品種)指定されていた品種が提供されたことが推測されます。
『強力』は後の『強力1号』であり、鳥取農試で品種比較試験の結果大正4年に原種指定された最初期の原種の1つで、『奥州』に関しては大正4年純系淘汰開始・大正7年育成完了で最初期原種の『奥州』と入れ替えられた新参の品種(後の『奥州1号』か?)と思われます。
『強力』『奥州』共に鳥取農試では大正10年から『強力1号』『奥州1号』と改名されますが、まさに絶妙なタイミングで兵庫県に供試されたと言えるかも知れません。
なお、この年に但馬分場で純系淘汰が行われていた品種は『穀良都』のみで、『強力』についての取り組みは記述ありません。

大正11年(1922年)、鳥取県の『強力』が但馬分場の品種比較試験の本試験に引き続き供試され、「長稈ナルモ有望」との評価を受けています。

大正12年(1923年)、引き続き但馬分場で品種比較試験の本試験に供試されている『強力』は、ここまでの3年間の試験成績として反収2.784石が記録されています。
ちなみに、この年に但馬分場では新たな純系淘汰育種が開始されていますが、供試されているのは『改良大場』系統と『豊年穂』系統で、当然ですが『強力』系統の純系淘汰は行われていません。

大正13年(1924年)から大正14年(1925年)にかけても同様に『強力』(鳥取県原産)は但馬分場の品種比較試験の本試験に供試され続けています。
大正13年には「強力良好ナリ」との評価、大正14年には「大粒種ニテハ強力等比較的多収」と記載がありました。
また別途大正14年からは水稲品種対肥料用試験への供試が始まっています。

大正15年/昭和元年(1926年)も大正14年から引き続き但馬分場にて品種比較試験と水稲品種対肥料用試験へ供試されています。
この年も『強力』(鳥取県原産)です。
この年の記録では成熟期が10月25日、草丈が4.64尺となっています。
巷の「強力は稈長が150cm近くまで伸びる」は、この草丈を稈長と勘違いしているように思えますが…果たして?

昭和2年(1927年)は但馬分場の品種比較試験の本試験のみの供試。
『強力』(鳥取県)は出穂期8月31日、成熟期10月24日、草丈3.66尺、茎数12.4本、玄米一升重404匁と記録されています。
一般的に「米一升は1.5kg」と言われますが、404匁は1,515gなので意外と平均的ですね。

そして昭和3年(1928年)、ついに兵庫県立農事試験場本場の原種圃に『但馬強力』が登場します。
注釈で「※原種ニ編入セリ」とあることから、この年から原種に採用されたのは間違いないです。
配布量は7.770石で、内3石3斗4升は但馬分場から配布したとの記載があるので、『但馬強力』に関しては本場と分場それぞれで原種栽培をしていたようです。
そしてこの年から試験への供試が一挙に増えます。(以下【】内は取り寄せ先表記)
まずは本場の水稲品種比較試験の本試験に『但馬強力』【原種】、水稲地方委託試験でも有馬郡、神埼郡、揖保郡全ての委託先に『但馬強力』が供試されています。
また酒造米試験地でも品種比較試験に『但馬強力』【原種】。
そして但馬分場では水稲品種比較試験に『但馬強力』【分場】、そして対肥料試験に『但馬強力』が供試されていました。
今までの試験記録や、取り寄せ先から判断してこの『但馬強力』は大正10年から但馬分場で品種比較試験が続けられてきた『強力』【鳥取県】と判断して良いでしょう。

昭和4年(1929年)、原種圃の配布量は7.770石で前年と変わらず、各種試験も継続されています。
本場では品種比較試験に加えて新たに対肥料用試験に供試。
地方委託試験では前年と同様の3郡に供試され、「早生大粒種ニテ但馬強力ノ成績良好」との評価。
酒造米試験地では変わらず水稲品種比較試験に供試。
但馬分場では水稲品種比較試験と対肥料用試験が実施されています。


以後は資料不備により今後の課題としますが、この後昭和9年(1934年)までの短い期間、『但馬強力』は兵庫県の原種(奨励品種)として配布されていました。


さて、『但馬強力』の育種結果の結論ですが…
詳細は関連記事の「兵庫県の『但馬強力』の正体は?」を見て頂きたいのですが、大正14年から但馬分場で『強力』系統の純系淘汰育種が開始されています。(なぜか開始年である大正14年の業務功程には記載がありませんが…)
この純系淘汰育種は大正14年に始まり、少なくとも昭和5年の時点でも2系統が残されまだ完了しておらず、そもそもその対照品種に『但馬強力』が使用されているので「兵庫県が純系淘汰育種したのが『但馬強力』」という一般に流布されている説は間違いでしょう。

鳥取農試が育成した『強力(強力1号)』を兵庫農試但馬分場が取り寄せ、品種比較試験の結果採用し、改名したのが『但馬強力』です。
なお、但馬分場で『強力』系統の純系選抜育種を行ったことは事実ですが、『但馬強力』とは関係がありません。




系譜図


『強力1号(強力)』(『但馬強力』) 系譜図
『強力1号(強力)』(『但馬強力』) 系譜図





参考文献


〇兵庫県立農事試験場業務功程:大正8年~昭和5年度
〇鳥取県立農事試験場業務功程:大正4年~昭和22年度
〇鳥取県農事試験場成績報告. 第6報
〇酒質が優れる酒造好適米「鳥系酒 105 号」の育成 :鳥取県農業試験場・鳥取県産業技術センター
〇酒米品種・系統の主要特性(第1報 栽培適性と玄米形質):秋田県農業試験場
〇日本主要農作物耕種要綱:大日本農会
〇取県米穀検査所年報. 第4報(大正3年度)




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2020年11月7日土曜日

【酒米】愛山11号(愛山)【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

地方系統名
 『愛山11号』
品種名(通称)
 『愛山11号(愛山)』
育成年(試験最終年)
 『昭和26年(1951年) 兵庫県立農業試験場 福田原種圃』
 ※交配 兵庫県立農事試験場酒造米試験地
交配組合せ
 『愛船117×山雄67』
主要生産地
 『兵庫県』
分類
 『酒造好適米』※現代の産地品種銘柄設定による

【酒米】愛山11号(愛山)の擬人化イラスト
…ふふ、こんにちは。愛山11号、よ






どんな娘?


影が非常に薄く、気付かぬうちに隅に立っていることが多い。
最近こそ目立って発言することも増えたため、平成生まれの米っ娘達には知らない者も多いのだがもともとは根暗非常に引っ込み思案であることに加えておっちょこちょい。

黙って立っている分には年相応に大人びているように見えるのだが、何か主体的にやらなければいけない場面に直面すると、地が出てプレッシャーから混乱して何かしらやらかす。(とは言え基本目立たないポジションなのでそういう場面はほとんどない)
現職キャリアとしては山田錦にも劣らないほどではあるのだが、いかんせんほとんど自分の部屋にこもりがちの数十年を過ごしたせいか人付き合いは苦手。
自己肯定感が非常に低い期間も長かったため、いまだにガラスのハートである。

ずっと自分を信じてくれていた剣菱酒造には大きな恩義を感じている。


概要


「幻」と呼ばれる酒米数あれど、一度は大規模に普及するなど日の目を見ている「かつて有名だった品種」(『新山田穂1号』『辨慶』『滋賀渡船系統』)であることが多いです。
それとは対照的に、長年ひっそりこっそり生き残ってきたのがこの『愛山』です。

正式名称は『愛山11号』で、交配親から頭文字を一文字ずつ取って『愛山』と命名された・・・というか当時の一般的な系統名付与のルール通りの品種?名になっています。

『山田錦』以上の大粒ながら、心白が大きすぎるために高精白では砕けやすく、雑味も出やすいとされています。
後述する栽培上の問題も抱えていることから、平成7年(1995年)以前は使用していた酒蔵はたった1蔵という、難物です。
ただし上手く醸せれば独特の風味が出せるとかで、使用酒蔵が広まったこともあって平成中期からは「山田錦以上の酒米」とかなんとか宣伝されて人気だとか。


そんな日本酒業界のてきとー解説がいくつか見られて誤解が広まっているのは・・・まぁ恒例でしょうか(『短稈渡船』と違って実害ないのでどうでもいいといえばどうでもいいんですが)

×栽培が難しいとされる『山田錦』より背が高い→〇『山田錦』と稈長はほぼ一緒ですし
×大粒なので『山田錦』より倒れやすい→〇『山田錦』より倒れにくいですし
×上記の理由で戦後廃れた→〇廃れる以前の問題でそもそも大規模普及してません
×兵庫県立明石農業改良実験所で交配→〇交配地は兵庫県立農事試験場酒造米試験地です
△剣菱酒造が独占していた→〇後述しますが公的機関(兵庫県)が原原種管理しているのに酒蔵が独占なんて出来るの?

倒伏云々についてはむしろ倒伏しにくい(当時基準)品種で、試験時に何より問題とされたのは『愛山11号』の栽培特性である「胴切れ米」(地元では「ひょうたん」と呼称)に代表されるように、米の品質がやや悪い、と判断されたからです。
無論現代品種と比べれば倒れやすい品種ですが、当時にしては倒れにくい品種だったのです。

昭和55年(1980年)から兵庫県において『愛山』として醸造用玄米の産地品種銘柄に設定されていますが、少なくともそれ以前の昭和26年(1951年)から栽培が続けられている古参品種です。
栽培当初、及び銘柄設定時の作付面積は16haとかなり少なく、昭和57年(1982年)に31haに微増しますが、以後30ha前後の作付面積が平成8年(1996年)まで続きます。
平成9年(1997年)にまた微増が有り、以後37ha前後での作付面積となりましたが、やはりかなり少ない作付で、希少な酒米と言えるものでした。

平成7年(1995年)の阪神淡路大震災において唯一『愛山11号』を使用していた剣菱酒造が被災し、契約分の酒米を買い取れなくなってしまったところで、それを買い取ったのが「十四代」で知られる高木酒造だったそうです。
以後、高木酒造を中心として『愛山11号』を使用する酒蔵は一挙に増え、様々な蔵が『愛山11号』の日本酒を世に出すようになりました。

それを受けてか平成17年(2005年)から生産量は増加に転じ、平成30年(2018年)には約650t(100ha程度?)まで達しています。
「戦後廃れた」のではなく、ずっと小規模な栽培のままで推移しており、むしろ今のこの世が『愛山11号』にとっての絶頂期になっているようです。



出穂期・成熟期は『山田錦』とほぼ同等の晩生種。
稈長(約94cm)・穂長(約19.2cm)・穂数(約16.3本/株)も『山田錦』とほぼ同じで草型は中間型。
耐倒伏性は『山田錦』より僅かに強い程度(現代の「弱~やや弱」?)、収量性は千粒重のおかげか高いものの品質がやや劣るものとされています(「胴切れ米」多し)。

兵庫県の1950年における普通肥料栽培の生成期によれば
稈の細太は「中」、剛柔は「中」。
芒は極稀に短芒が発生し、もみの色は「白」と普通です。
玄米千粒重は30.0gと『山田錦』(対照28.0g)以上で、心白は多く、腹白の発生は微かだったそうです。
脱粒性は「易」で、現代では栽培しにくそうな品種ですね。


父本『山雄67』(後の『山雄67号』)の読み方について


当時の系統名は交配親の両親の頭文字を付けており、『愛船』『山愛』を「あいふね」「やまあい」と読んでいました。

であれば、『山田錦(”やま”だにしき)』×『雄町(”お”まち)』の交配である『山雄』は「やまお」と読みそうなものですよね。
しかし、昭和22年(1947年)時点で指導農場の職員であった山田智賀司氏の証言によれば、「やまゆう」と読んでいたそうです。

なので「やまゆうろくじゅうなな」になるのでしょうか?
令和7年現在、兵庫県立農林水産技術総合センターの酒米試験地には『山雄67』が展示されているようなので、『愛山11号』の父本は今も種子保存が続けられているようです。

育種経過


昭和3年(1928年)に創設された兵庫県立農事試験場酒造米試験地では昭和10年(1935年)から品種開発が開始されました。
主に酒造米の品種改良や栽培に関する試験を行っていましたが、昭和9年(1934年)からは雑種系統の生産力系統試験、昭和18年(1943年)からは雑種系統育成試験も行っていたようです。
その後太平洋戦争を経て、終戦の昭和20年(1945年)に加東西部技術指導農場、さらに福田原種圃(昭和25年4月に改称)と姿を変え、一時的に酒米業務から離れますが、昭和27年(1952年)8月に酒米試験地と改称され、再び酒米を担当する試験研究機関として再出発します。

その過渡期に育成されたのが『愛山11号』です。

昭和16年(1941年)に酒造米試験地において、母本『愛船117』、父本『山雄67』として交配が行われます。

◇母本『愛船117』
昭和10年(1935年)に兵庫県立農事試験場明石本場で『愛知三河錦4号』を母本、『船木雄町』を父本として交配された雑種(交配番号『兵10交47』)後代で、交配時点で雑種第6代でした。
『愛山11号』の片名の由来にもなっている『愛知三河錦4号』は『早生神力』からの選抜…ですが単純な「神力系品種」かというとこれまた複雑でして
明治27年に知多郡八幡村の加藤石松氏が兵庫県から『力良』と呼ばれる品種を持ち帰り、抜穂しつつ数年純系淘汰を行っていました。
その純系淘汰を行ったものがさらに安城町里(安城市里町の誤記?)の富田宇吉氏の手に渡り(譲り受け)、『早生神力』と命名して普及したものが元です。
それがさらに大正4年に愛知県農事試験場において『三河錦』と改名され、奨励品種に加えられ、順次純系淘汰による系統変更が行われ、昭和4年来『愛知三河錦4号』が奨励品種になりました。
と、「神力」と言う名前だけ見ると神力系品種群由来にも思えますが、全く違う系統です…かも?
兎にも角にも、『愛知三河錦4号』と『船木雄町』交配雑種後代からは他にも『兵庫雄町(愛船206-169)』が生まれてたりもします。

◇父本『山雄67』
昭和11年(1936年)に酒造米試験地、もしくは明石本場で交配が行われ『山田錦』を母本、『雄町』を父本として交配した雑種(交配番号『兵11交37』)後代で、交配時は雑種第5代です。
後に『山雄67号』となります(雑種第7代『山雄67-127』)。

【以下墨猫大和の妄想】
『山雄67』は『山田錦』と同じ草姿で、玄米品質も優れ、収量性も高い点は優秀でしたが、倒伏しやすいことと、千粒重が小さく(小粒)、心白の発現が少ないことが問題であったと思われます。
そこを稈が太く剛いために『山田錦』よりも倒れにくい、かつ大粒で心白の発現も多かったであろう『愛船117』との交配で、改善しようとしたものと思われます。
【墨猫大和妄想終了】

交配翌年の昭和17年(1942年)にF1個体が養成されました。

…そして
以後の育成経過は資料が現存しておらず不明です。

存在が再確認出来るのは7年後の昭和24年(1949年)。
福田原種圃の生産力検定試験に『愛山11号』の系統名で供試されています。
これは昭和18年以降行われてきた雑種系統の育成試験を引き継いでいるものと思われます。
ここでは収量性は高いものの、品質がやや悪いとの理由で昭和26年(1951年)で試験は終了しました。

試験場での育成試験は昭和26年で終了したものの、福田原種圃(後の酒米試験地)の地元である加東郡社町では一部の農家や集落での栽培が続けられたようです。
正式名称については系統名である『愛山11号』ですが、地元で「愛山」と略して呼ばれたことによりその呼称が現代まで続いているものと思われます。

その後酒米試験地では昭和43年(1968年)に品種保存栽培に供試するために社町山国の農家から苗を譲り受け、場内栽培及び特性調査を実施。
民間での自家採種を繰り返して品種特性がぼやけ始めていたのでしょうか、純系淘汰実施の要望が地元よりあり、酒米試験地で選抜が行われています。
そして昭和47年(1972年)には種子の地元提供が始まり、昭和48年(1973年)からこの酒米試験地提供の種子による現地栽培が開始されます。
これ以後も隔年で試験地からの種子供給は続き、昭和60年(1985年)からは酒米試験地で原々種栽培を開始し、みのり農業協同組合(JAみのり)へ3年ごとに有償供給されるようになりました。

平成18年(2006年)時点で生産地は加東郡社町のみでしたが、生産集落には変遷があったそうです。
当初は社町山国で栽培されていましたが、胴切れ米が問題となり、社町木梨と山口の2集落での栽培に変わりました。
品質の悪い米の発生はそのまま農家の収入減に繋がるため大きな問題です。
灘五郷の剣菱酒造が大規模な契約栽培(『山田錦』『愛山』)を長年行っており、これにより農家の収入が保証され、品質に問題のある『愛山』が現代まで存続できた大きな原動力になったのは間違いありません。


 系譜図


愛山11号『愛山11号(愛山)』の系譜図
愛山11号『愛山11号(愛山)』 系譜図




参考文献(敬称略)



〇酒米試験地の設立と初期品種系統「兵庫雄町」、「山雄67号」および「愛山」の育成経過:池上勝
〇米麦品種改良増殖事業概要 並 米麦原種穂事業成績:愛知県立農事試験場
〇農業試験場60年史:兵庫県立農業試験場
〇【加東】"兵庫の酒米『山田錦』生産システム"が日本農業遺産に認定!Vol.4|①酒米の価値「酒米の王者」:https://www.himeji-mitai.com/feature/385514.html



関連コンテンツ












2020年5月24日日曜日

【酒米】辨慶1045号~辨慶(伊豫辨慶1号)~ 【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

純系名
 『辨慶1045号(辨慶七六〇一〇四五)』(『辨慶〇一〇四五号』の表記も随所に見られる)
品種名
 『辨慶(伊予辨慶1号)
育成年
 『大正6年(1917年) 愛媛県農事試験場』
交配組合せ
 『大分県の辨慶より純系淘汰』
主要生産地
 『兵庫県』※平成~現代
分類
 『酒造好適米』※平成~現代

酒米 辨慶1045号『辨慶(伊豫辨慶1号)』の擬人化イラスト
吾か?『辨慶』と呼ばれている



どんな娘?


現役引退からかなりの休養期間を経て平成の世に現役復帰。
ただしあくまでも彼女は伊豫辨慶1号(愛媛・兵庫・鳥取県普及)であり、辨慶2号(山口県)や辨慶13号(大分県)、在来種の辨慶は含みません。
この点、抽象的な在来種の具現化した太夫元六米達とは違い、滋賀渡船2号達や強力2号に近いものです。


昔は弁慶を模した格好(頭巾、袈裟、袴等)をしていましたが、現代の米の基準に基づき水着姿に着替え済みです。(ただし頭巾だけは手放さなかった様子。)

一人称は「吾」。
男性口調でぶっきらぼうな話し方をするのに加えて、性格がかなり強情で気難しいことから、基本的に他人との交流はかなり苦手。
同世代・同境遇の滋賀渡船姉妹と新山田穂1号らとは話をしているようですが、気の合う相手となるとかなり少ない様子です。(今のところ強力2号ぐらいでしょうか?)




概要


世代としては『神力』や『愛国』と同じ世代、大正から昭和初期にかけて栽培されていた品種です。
おかげで情報はかなり少なく、諸々怪しい情報も多いようです。(しかも兵庫県が事実誤認をしているというおまけ付き)

有名どころでは、兵庫県で大正13年(1924年)から昭和30年(1955年)まで『辨慶』の名で奨励品種に指定されていました。
酒造適性の高さから、酒蔵に歓迎されていたそうですが、他品種の例に漏れず、時代の変化と共に作付は減り、その姿を消しました。
平成25年(2010年)から、兵庫県内で酒造用として用いられた『辨慶』復刻の取り組みが始まり、それ以後酒造好適米として銘柄設定されています。


「兵庫県が愛媛県から取り寄せた「弁慶1045」から選抜・育成」という触れ込みで広まっていることから「兵庫県が育成した品種」との認識が多いようですが、これは兵庫県の認識間違いです。
実際は「愛媛県が育成した『伊豫辨慶1号』を品種比較試験し、優秀だったため兵庫県が採用した」と言うのが正しいようです。(詳細は辨慶とは?復刻された幻の酒米(?)の”追記”を参照)


そんな『辨慶』はそもそも山口県の在来種(少なくとも明治41年以前より栽培)でした。
その山口県から大分県へと渡り、そして大分県から愛媛県へと、そして最後にたどり着いたのが兵庫県(と鳥取県)でした。

山口県では『辨慶2号』が、大分県では『辨慶13号』が、愛媛県では『伊豫辨慶1号』が、そして兵庫県と鳥取県では『伊豫辨慶1号』が名前を変えてそれぞれ『辨慶』、『辨慶1号』として、『辨慶(在来)』から育成された純系淘汰の子品種達が大正期以降は普及していました。

夫々の県の評価を見るに、「辨慶系統品種」の共通する特徴として
「1.稈(茎)が非常に強く、倒伏しにくい」「2.いもち病への抵抗性あり」「3.大粒で酒造用に適している」の三つが挙げられそうです。

在来の『辨慶』を対照としている県(山口県や兵庫県)では、収量の増加と、より玄米の品質の良い系統を選抜し、一定の評価を受けていますが、『亀治』を対照品種にしている鳥取県では「品質があまりよくない」との評価を受けているので、とびぬけて品質が良い品種ではなかったようです。


大正15年(1926年)当時で、兵庫県内での『辨慶』普及面積は1,598.2ha。
「大粒種で酒造用にも用いられている」との表記はありますが、兵庫県全体の水田面積は約10万7千haですから、この時点では原種指定間近ということもあるのでしょうが、ネットで言われている「兵庫県で代表的な酒造好適米だった」には少し寂しい面積ですね。
これが昭和12年(1937年)になると一気にその普及面積は12,157haまで増加。
作付面積1位の『朝日(系品種群)』に次ぐ第2位の作付面積で、兵庫県約9万3千haの水田の13%に及んでいます。

ちなみに同じく愛媛県から大正9年(1920年)に取り寄せ・品種比較試験、大正13年(1924年)に原種指定(『辨慶1号』)の鳥取県では大正15年(1926年)時点で924.13ha普及…
鳥取県全体で約3万3千haですから、割合として兵庫県よりは普及していたようです。
とは言えこれも初期だけ。
昭和12年(1937年)には統計から姿を消しています。

故郷の山口県では大正15年に『辨慶2号』が5,174.9ha、それが昭和12年に8,503ha(水田面積の12%・県内第3位)普及。
大分県では大正15年時点で『辨慶13号』が5,707.0ha普及していたのが、昭和12年に1,950ha(水田面積の4%・県内第3位)と減少傾向。
そして『伊豫辨慶1号』生みの親の愛媛県では大正15年に757.0haの作付けがありましたが、昭和6年を最後に種子配布を終了。昭和12年には既に統計に登場するほどの作付は無くなってしまったようです。


その始まりに至っては「山口県の在来種」程度しか情報が無く、今やその命名の由来を知る事は不可能に近いです。
ただ、今でこそ「大粒で心白があり、山田錦と同等だった!」とばかり喧伝されていますが、当時のどの県でも強調されているのはやはり耐倒伏性の高さです。
「稈が強く倒れない」稲の姿が、「弁慶の立ち往生」を思わせることから…
名前の由来に関しては、こんな想像は出来ますね。(あくまでも想像)

『辨慶』発祥の地山口県には『牛若』という名前の品種も大正当時あり、奨励品種となっていましたが、「吉敷郡より取り寄せたるもの」くらいしか情報が無く、果たして『辨慶』との因縁があるのやらないのやら・・・謎です。

兵庫県の1950年における普通肥料栽培の成績によれば『辨慶』は
稈の細太は「太」、剛柔は「剛」。
芒はなく、もみの色も「白」と普通です。
玄米千粒重は26.8gで心白は多く、腹白は少なかったようです。

現代の『辨慶』~現代における純系淘汰種~



平成25年(2013年)に兵庫県姫路市夢前町で「夢前ゆめ街道づくり実行委員会」が立ち上がり、町おこしの一環として、既に栽培の途絶えていた『辨慶』(多分当人たちはこれが正確に何のことを言っているか認識していなかったと思われますが…)の復活を企図。
兵庫県立農林水産技術総合センターから700gの『辨慶』の種子を譲渡され、夢前町の水田で栽培を行います。

同町の壺坂酒造が当時の酒造記録や、蔵の壁などに生息していた「蔵付き酵母」を使用するなどして、復刻された『辨慶』を使用した日本酒を販売しているようです。

他、酒米『辨慶』使用を謳った日本酒は他の蔵からも出ているようです。


兵庫県が保存していたのはおそらく兵庫県で普及していた純系淘汰種の『辨慶』でしょうから、前・後述している通りこれは『伊豫辨慶1号』と言えるでしょう。
ただしこういう復刻話、当人たちや記事を書いている人が状況をよくわからずに書いている(『短稈渡船』がいい例)ことも多いので、本当に兵庫県が保存していた系統かと言うのも正直怪しいデス。

ただ、『辨慶(在来)』と、兵庫県の指定した名称『辨慶』が同じなので非常に紛らわしいですが、抽象的で概念に近い『辨慶(在来)』は既に存在しないと考えるのが妥当ではないでしょうか。



ここで「たった700g”だけ”残っていた」としている説明や、復刻米系では毎回このような説明があるので、「奇跡的に少しだけ残っていた種を発見したのか!」と思っている人も多いのかもしれませんが
研究機関の「保存している」というのは「数年おきに種をまいて採種して、を繰り返す」ことなので、瓶に詰めてどこかの棚にずっとしまってあるようなものではありません。
種子の提供依頼があれば、次回の採種に影響の出ない範囲で、保存している種子を分譲しているのです。
なのでそもそも「たった○○gだけ残っていた。そしてそれを譲ってもらった」と言うことがあり得ません。
規定されている保存種子量が多ければ数百グラムの譲渡も出来ますし、少なければ数十グラム程度しか譲渡できない場合もあるわけですね。
だからこれも「兵庫県が系統保存している中から700g分の種子を譲渡した」というだけです。
夢前町に譲った後も、引き続き兵庫県で保存は続けられているはずです(ジーンバンクに譲渡するなどして県での保存が途絶える場合もあり)。



育種経過


前述していますが、世間一般で広まっている
「『辨慶』は大正8~13年ごろに兵庫県農事試験場(但馬分場)で育成された品種」というのは、誤りです。
兵庫県公式なので取り上げている書籍も多いですが、これは「現在の兵庫県の認識が間違っている」ということになりますね。

■『伊豫辨慶1号』の育成経過


山口県では在来種として県内で広く栽培されていた『辨慶』について、明治41年(1908年)から試験するなどして原種(奨励品種)にも採用しています。
そんな『辨慶』の故郷山口県から、大分県が明治41年(1908年)に種子を取り寄せ試験を行います。
大分県では独自にここから『辨慶13号』を育成、普及に移しています(大正5年~)。

時代は流れて大正4年(1915年)、大分県農事調習所から愛媛県が普通種『辨慶』を取り寄せて、ここから純系淘汰法による新品種の育成に取り組みます。
愛媛農試の評価によれば在来の辨慶種は「極めて良好な性質を持つものの、特性が雑駁(要はバラバラで統一性が無い)」とのこと。
この雑多な『辨慶』から純系分離で中生の雄町の代替となる「短稈多収品種」と「稈長の長さにはこだわらず品質が特に優勝な母本品種」を育成する目的で大分・山口両県から雑多な『辨慶』を取り寄せて純系分離作業が行われたのでした。

第1回選抜では、1,100個体の中から95系統が選抜されますが、この中には短稈系統が14系統含まれており、この短稈系統の中の一つが『弁慶1045号』(原表記ママ/のちの『伊豫辨慶1号』)となります。
その後も第1回選抜の系統は2回の選抜(形態調査、収量調査も含む)が実施されます。
そして大正6年(1917年)、『辨慶1045号』は大分県から取り寄せた『辨慶』に比較して品質も良く、いもち病耐性に優れ、かなりの多肥に耐える多収の品種と認められます。
そして『伊豫辨慶1号』と命名され、愛媛県で栽培されていた『伊豫雄町1号』や『竹成』の中山間地での作付けに代わるべき品種として原種(奨励品種)に指定されます。
『伊豫雄町1号』や『辨慶普通種』に比べて収量で4.6~4.9%の増加が見込まれ、稈長ははるかに短稈で倒伏の心配は少ない。開花期が当時の愛媛県の9月10日頃の暴風前に早めに終わり、同じく10月10日の頃の暴風前には成熟が終わるということで、風による被害を回避することもできる絶妙な熟期と評されています。

兵庫県に行く前に未来の話となりますが、愛媛県では『伊豫辨慶1号』について大正6年の原種指定から昭和6年まで配布を継続、その後配布は中止されました。

■兵庫県における『伊豫辨慶1号』の原種採用


そんな愛媛県での『伊豫辨慶1号』の育成・原種採用から2年後、大正8年(1919年)に兵庫県が愛媛県から辨慶種について『辨慶1045号』の配布を受けたものと思われます。(また後年の記録から推測して、『辨慶1045号』配布の前年大正7年に『辨慶404号』の配布も受けたものと思われます。)

兵庫県ではこの『辨慶1045号』(と『辨慶404号』)に関して、品種比較試験を行います。
大正時代の兵庫県における品種比較試験は「各地方にて優良と認められた品種を新たに取り寄せ兵庫県の風土に適するかどうか試験するもの」で、選抜や育成ではありません。
※なお、この頃の兵庫農試は”号”を省略する癖があったり微妙に表記ブレがあるので、以下あしからず。

大正8年(1919年)の業務功程で、本場の品種比較試験(予備試験)に『辨慶一〇四五』(原表記ママ)が供試。
なお、この品種名表記は、収量結果を示す表において『辨慶一〇四五號』となっていたりと表記ゆれがありますが、これ以降も最初のページの表記に銃供試ます。
【蛇足】同8年の本試験には『神力四〇四』(現表記ママ)がいますが、これはおそらく『辨慶404号』の認識間違いと推測されます。(愛媛県に『神力404号』が存在しないため。ただ他の神力系統の結果とまとめて書いてあるので、表記間違いではなく兵庫農試の勘違い?)

大正9年(1920年)は本場での品種比較試験の予備試験は表記が省略(「供試品種ハ四十四種」とのみ記載)されており、『辨慶1045号』の記載は見られませんが引き続き供試されているものと推測。
この年、「予備試験から本試験に編入する」とされた品種の中にも「辨慶」はありません。
ただし、本試験では『辨慶404号』が実施。(記載されているのは『神力四〇四』ですが、前述のとおりと推測)
そして但馬分場では”本場から取り寄せた”『辨慶一〇四五』(原表記ママ)について品種比較試験の本試験が実施されています。

大正10年(1921年)、本場での品種比較試験の予備試験はあいかわらず表記が省略(「供試品種ハ七十六種」とのみ記載)されており、内容が確認できませんが、おそらく『辨慶1045号』は予備試験に供試され続けているものと推測されます。
そして但馬分場では”愛媛県から取り寄せた”『辨慶一〇四五』『辨慶四〇四』(原表記ママ)について品種比較試験の本試験が実施されています。(昨年記載されていた取寄先と変わっています(本場→愛媛県)が…矛盾はない範囲ですのでまぁ…)

大正11年(1922年)、この年から本場の品種比較試験の本試験に『辨慶一〇四五』(現表記ママ)が供試されます。
前年の予備試験において「本試験に編入することを決定した」中に辨慶はいなかったはずですが…なぜかこの年から本試験に格上げされています。(この時代の記録は整合性が無いのが常です)
但馬分場では1045号、404号が同じく供試。

大正12年(1923年)、引き続き本場の品種比較試験の本試験に『辨慶一〇四五』(現表記ママ)が供試されています。
そして同年の「水稲純系淘汰」の「第三年目以後収量調査」にも『辨慶一〇四五號』(原表記まま)の記載があり、この年が試験初年度とされています。
これは「分型年次」(純系淘汰試験開始後何代目であるかを示していると思われる)に記載が無いので、純系淘汰育成系統の比較対照としての記載で、純系淘汰の育種経過を表すものではありません
なお、地方委託試験も実施されており津名郡、揖保郡、有馬郡には『辨慶一〇四五』(原表記まま)が、多可郡には『辨慶』(原表記まま)が供試されています。
多可郡の”辨慶”が何なのかは不明ですが、おそらく『1045号』でしょう。
同じ12年度、但馬分場では品種比較試験の本試験に『辨慶一〇四五』『辨慶四〇四』(共に原表記まま)が供試されています。

そして耐倒伏性の強さ、そしていもち病抵抗性であることから大正13年(1924年)に『辨慶』として原種(奨励品種)指定され、配布が開始されます。
この年から明石本場の品種比較試験でも地方委託試験でも『辨慶』(原表記まま)しか登場しなくなっています。
ただし「水稲の品種肥料用量試験」では『辨慶一〇四五』(原表記まま)になっています。
そして但馬分場の品種比較試験では『辨慶四〇四號』『同(一〇四五號)』(共に原表記まま)、水稲の品種肥料用量試験では『辨慶一〇四五號』(原表記まま)が記載されています。
この但馬分場の比較試験において『同(一〇四五號)』(原表記まま)の備考欄に(原種)と記載があるので、『辨慶1045号』が原種指定された『辨慶』であるとみて良いでしょう。


■総括(兵庫県『辨慶』は愛媛県育成『伊豫辨慶1号』である)



前述していますが、改めて根拠を踏まえて

1.兵庫県に渡った時点で『伊豫辨慶1号』の育成から3年も経過していること
2.『”純系”一〇四五号』とされており、すでに純系淘汰された系統であると思われること
3.品種比較試験であり、純系淘汰を行ったとは記載されていないこと

以上のことから、ネット一般(そして兵庫県公式)で言われている「兵庫県が純系淘汰で育成した」誤り
「愛媛県育成の『伊豫辨慶1号』を兵庫県が試験した結果優秀だったので名前を変えて採用した」
これが正確な情報でしょう。
おそらく兵庫県(現代)では「品種比較試験」を「選抜・淘汰の育種の一種」と勘違いしての「純系淘汰・育成した」という解釈だと思われますが、業務功程を見る限り『辨慶1045號』を純系淘汰した記録はありません。
純系淘汰育種の記録は別途きちんと記載されており、品種比較試験はまた別の扱いです。
あくまでも『辨慶1045號』と言う品種として比較試験され、優良として原種指定を受けています。(表記が『辨慶一〇四五』『辨慶一〇四五號』『辨慶』とバラバラなので紛らわしいですが、『山田錦』の育成時の系統名称もバラバラだったように、この時代の品種(系統)名の扱いは相当いい加減だったのです。)
愛媛県側の記載と合わせて考えると、愛媛県側で既に品種としての育成と固定はほぼ終わっていたと見るのが自然でしょう。
それを多少選抜したからと言って「兵庫県が育成した」はさすがに過言かと思われます。
これを是とすると、新潟県の某さんが主張した「『コシヒカリ』は新潟県が育成した!」も正しいということに…とはいえ時代もかなり違うので簡単にひとくくりにはできませんが。


こうして誕生して、兵庫県で『辨慶』として普及した『伊豫辨慶1号』は、昭和にかけて兵庫県内第2位の作付面積まで増えているのが確認できますが、その後は交配後代(子)品種も現在のところ発見できず、『辨慶』の血筋は昭和中期にかけて本当に姿を消していったようです。
強稈や耐肥性であることから育種材料としては十分な素質を持っているように思えるのですが…なにかしら反りが合わなかったのでしょうか?


※各県での詳細な情報は以下、関連コンテンツにて


系譜図

酒米品種「辨慶」の系譜図
辨慶1045号『辨慶』の系譜


参考文献

〇「百年前の酒米で日本酒復刻へ 姫路の新特産品に」:HYOGO ODEKAKE PLUS+
〇酒米品種「山田錦」の育成経過と母本品種「山田穂」、「短稈渡船」の来歴:兵庫農技総セ研報
〇昭和四年三月米麦原種一覧表:兵庫県立農事試験場
〇兵庫県立農事試験場業務功程大正9年~14年
〇水稲及陸稲耕種要項(昭和11年):大日本農会
〇農芸研究拾箇年輯米麦篇:昭和10年 愛媛県立農事試験場
〇農事改良資料第九七 道府県ニ於ケル主要食糧農作物品種改良事業ノ成績並ニ計画概要:農林省農務局

2020年4月14日火曜日

【粳米・酒米】~神力~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

地方系統名
 『ー』
品種名
 『神力(器量好・器量能)』系品種群
 ※異名多数
育成年
 『明治10年(西暦1877年) 兵庫県 丸尾重次郎氏選抜』
交配組合せ
 『程吉より選抜』(文献により『程良』『程好』の表記あり)
主要生産地
 『ー』※福井県、兵庫県、熊本県で各純系淘汰後代独自系統が栽培中
分類
 『粳米』※純系淘汰後代は酒造好適米(産地品種銘柄に依る)に分類


神力「神の思し召し、か…それもよかろうかい」




どんな娘?

米っ娘たちのとりまとめ役、太夫元六米の一角。

明治の三大品種の一角。
理知的な発言と見た目から丁寧な仕事ぶり…が想像されますが、実は結構雑で物事をこなす際にも粗さが目立ち、太夫元六米の仲間内からも苦言を呈されることがあります。(でも昔だったらそれなりに丁寧って評価されたのに…【本人談】)
ただ、そこそこの出来で大量に仕事をこなすのは得意で、質より量が求められる時代には大いに人々の助けになったのは確かです。

生まれた時こそ「誰よりもよく食べ、よく働く」の代名詞だった彼女ですが、今時の米っ娘にはどちらも遠く及ばない現状についても、嘆くのではなくその変化を愉しんでおり、事象の理解・分析には細やかなところがあるようです。

ちなみに、上州が後ろにくっついていることが多く、なにやら気が合うようで一番仲のいい組み合わせです。

一人称は「私たち」。
他の太夫元六米(や「在来」と呼ばれる品種)は性質や熟期も幅広い(固定が不十分な)ことが多いですが、愛国と並んで神力も純系淘汰で正式に固定した子品種が作出される以前の段階で早生・中生・晩生が存在していたせいか、時折性格のブレが大きく出ます。


概要

主に大正期~昭和初期に言われたという西の『旭』に東の『亀の尾』は有名どころですが
それ以前の明治~大正の時代に西の『神力』、東の『愛国』と称され、『亀の尾』も加えた三大品種に数えられたのがこの『神力』(系品種群)です。
前者は良食味品種として東西の双璧に数えられましたが、後者は多収品種と言う意味での東西の双璧…と言えるでしょうか。


『神力』の名は、「稲姿と籾色が甚だ優美であり、その多収性に神の加護を感じられた」ことから、と言う何とも神秘的なお米ですね。
『花嫁美人』と言う異名も、その見た目(稲姿)の美しさ故だそうです。

時代は明治初期。
明治6年(1873年)の地租改正により、農民は豊作・凶作にかかわらず一定の税金を納めなくてはならなくなり、生活はより一層苦しいものとなり、諸県では一揆が起こるほどでした。
そんな中ですから、税金を納めるためにより多くのお米がとれること、そして仮に天候の悪い年にも多くのお米がとれることが強く求められました。
つまりより多収で耐病・耐冷性に優れた新品種が求められていました。
まさにその時代に生まれた『神力』は、従来品種の1.25倍という並外れた収量を示し、なおかつ当時としては品質も良いと評価され、神の授かりものとさえ言われました。
大正期に普及した『旭(朝日)』に収量・米の質・耐倒伏性・耐病性すべて劣るとされ、姿を消しましたが、間違いなく明治期の西日本の米農家を支えた素晴らしい品種です。

明治初期は大豆粕肥料が普及し始めていたころでしたが、これに対する耐性が高いことからも、食糧増産に一役を買ったようです。
しかし大正8年(1919年)頃から硫安(硫酸アンモニウム)のような無機質肥料の使用が増えるとともに、いもち病が増え始めたというので、無機質肥料に対する耐性はあまり強くなかったことがうかがえます。

大正8年(1919年)が最盛期で全国作付面積の約19%を占めましたが、以降実質的な後継品種『旭』への切り替えが進み、昭和20年代半ばに姿を消したそうです。

大正時代の『神力』は、普及していた県が多かったせいもあってか、かなりの種類の純系淘汰品種が奨励品種になっており、正直収拾がつきません…
在来で既に『早生神力』『中生神力』『晩生神力』が確認でき、それぞれの在来から選抜された純系淘汰種(『早生神力◯号』等)が育成されたようです。
品種名に地名を載せているところ(滋賀県や奈良県)では、名前が長すぎるせいか
【奈良県が、『在来晩生神力』から選抜した品種の1号】を『奈良晩神1号』
のように、「神」だけを用いた品種名もみられます。
そんな『神力』の名を冠した品種の中でも、愛知県の『愛知栄神力』(『神力』×『三河錦』交雑種)や高知県の『土佐神力』(『愛国』×『神力』交雑種)、鹿児島県の『三井神力』(『愛国』×『神力』?交雑種)など、純系淘汰ではない純粋な子品種も存在していたようです。
ちなみに、『愛国』の場合は『改良愛国』が交雑による子品種でしたが、大正時代に確認できた範囲では『改良神力』はすべて純系淘汰による育成品種となっていて、やはり昔の品種を調べるにあたって名前だけでは容易に判別できないようです。

さらに『早生神力』などについても、基本的に現代で『神力系品種群』の扱いを受けている事が多いですが、明治~昭和初期当時からして「神力の一種として良いものか」とされていることが多いのです。
本来であれば区別されるべき別品種で、遺伝的に近縁であるかどうかは別として、慣例・慣習によって『神力系品種群』が構成されていたことが窺えます。


広島県における『伊勢錦』

『伊勢錦』と言えば三重県生まれの在来種で、平成・令和現代においても純系淘汰後代の『伊勢錦722号』が栽培されていますが、明治期の広島県では『神力』系品種群の異名として『伊勢錦』が用いられていました。

広島県では明治43年に『神力』の中から特に優良と認めた「草丈がやや長く、分けつ数の多い個体」について『伊勢錦』と命名、配布していました。
その後大正6年に名称統一のためにまた『神力』に戻していますが…
明治43年~大正6年の間、広島県から取り寄せた『伊勢錦』はその実『神力』(系品種群)ということですね。
もしも昔の品種を調査する場合(そんなことあるのか)は、他県の試験場で広島県産『伊勢錦』を見たらこの点注意が必要ですね。


愛知県における『早生神力』

愛知県では明治27年、知多郡八幡村の加藤石松氏が兵庫県から『力良』と呼ばれる品種を持ち帰り、抜穂しつつ数年純系淘汰を行っていました。
その純系淘汰を行ったものがさらに安城町里(安城市里町の誤記?)の富田宇吉氏の手に渡り(譲り受け)、『早生神力』と命名して普及されました。

これがさらに大正4年に愛知県農事試験場において『三河錦』と改名され、奨励品種に加えられています。
ここから順次純系淘汰による系統変更が行われ、昭和4年来『愛知三河錦4号』が奨励品種になりました。

これが酒米品種としても有名な『愛山11号』の母系統に当たることからよく紹介され、そしてよく誤解されていますが、『早生神力』は上記のように選抜者も選抜過程も、兵庫県の丸尾氏が選抜した『神力』とは全く違う品種です。
大正時代の愛知農試が『三河錦』と改名したのも、兵庫県発祥の『神力』と区別するためだと推測されます。

系譜図では単に”早生神力”や”神力”としか表記されないので勘違いされやすいですが、これが在来品種を語る上で注意しなくてはいけない点です。
同じ名前の品種など(明治・大正当時は)いくらでもあるので、単に品種名だけで判断することはできないんですよね。


北海道における『神力1号』『神力糯2号』『神力3号』

(全くリサーチできていないので全体は把握出来ていませんが)数多くの県で「神力〇号」という純系淘汰で育成された神力系品種は数多く存在し、普及に移されました。
当然それは自然雑種や別品種など含む雑多な品種群からの選抜…であるものの、一応「在来種『神力』に類する品種」、と言うことは出来るでしょう。
ただまったく完全に関わりの無い”神力”も(おそらくこれ以外にもたくさんあるのでしょうが)

北海道夕張郡長沼村(昭和20年当時)の篠島淸作氏が育成した『神力1号』『神力糯2号』『神力3号』らがそれです。(この後ももしかして?)
一見すると在来種『神力』からの純系淘汰のように思えるかもしれませんが全く違いました。

※一応品種名は原表記ままで
『神力一號』……『上育B十八号』(後の『栄光』か?)の純系淘汰
『神力糯二號』…『改良糯一號』×『陸羽一三二號』交配後代
『神力三號』……『水稲農林二十號』の純系淘汰


『神力1号』『神力糯2号』の育成完了年は不明ですが、『神力1号』の選抜元『上育B18号』の配布開始年がイネ品種データベース通り1939年(昭和14年)だとすると、1号の育種完了年は昭和16~19年の間(純系淘汰に3年程度かかると勘案)かな?と言う推測は出来ますね。
『神力糯2号』は同時期かそのあとでしょう。
『神力3号』は昭和20年度に「本年度発表品種」とされていますので、昭和20年(1945年)育成完了…でいいのかな?

この篠島淸作氏なる方が如何なる方か詳細はわかっていない管理人ですが、大正8年(1919年)から個人で育種を続けている方のようで、記録からも全国各地の農事試験場から助言や資料の提供を受けた上で、公的試験場に劣らない数の交配を行っています。
この方は試験系統に『神系』とつけるなど、なにかしら”神”に強い思い入れがあるように見受けられ、以下の一文が「水稲新品種育成のあらまし」に記載されていました。

自分という微少なるものゝ力で出来ることは一つもないのだ。如何なる小さな仕事でもみな天地を貫く偉いなるものゝ力による、此の偉大なる力の主を神と云ひ佛といふのだ。右にせず左せず只一筋に神の命ずるまゝに使命を果さう。如何に採算がとれなくても、こと、如何に小なりとも使命だもの、毅然として神業を翼賛しやう。

有名どころの在来種『神力』とはまた違った意味が込められていそうな品種ですね。

『コシヒカリ』との関連性

『コシヒカリ』につながる系譜としては、『コシヒカリ』の母親『農林22号』のさらに父親『農林6号』まで遡ります。

この『コシヒカリ』の母方の祖父に当たる『農林6号』の父親、『コシヒカリ』から見て曾祖父が『撰一』となっています。
この『撰一』は『器量好(神力)』からの選抜種であり、このように『神力』の血が現代に繋がっているというわけです。


現代の『神力』 現代における純系淘汰種

栽培が途絶えた『神力』も平成の時代に栽培が復活していますが、これは保存されている複数系統の『神力系品種群』の中から優良なものを選抜したもの…
と言うより、もう完全にこれは神力系統の新品種を作り出した、と言っても過言ではないでしょう。

〇兵庫県
『神力』復活としては熊本県の方が先のようですが
兵庫県では平成6年(1994年)に姫路市の本田商店が「郷土が生んだ米の原種で酒を造りたい」と要望したのが始まりだったそうです。

酒米試験地が京都大学農学部から種子を取り寄せ、平成8年(1996年)に中島集落での栽培を始めました。
柳津北営農組合と普及センター、JAの協力の下で、ジーンバンクから取り寄せたものも加えた8系統で比較試験を行い、酒造適性に優れた1系統を選抜。
その1系統を平成12年時点で3ha作付けしていたそうです。

後述する熊本県と同じように、兵庫県も独自の選抜を行った現代版『神力』(純系淘汰)を栽培している模様です。

〇熊本県
熊本県の美少年酒造が復活を志したようで、JA熊本経済連も全面的な協力を行ったようです。

平成3~4年(1991~1992年)の2年間、熊本県内で『神力』の種子を探すも見つからず。
平成5年(1993年)になり、佐賀県内の農家が保存していた『神力』を見つけましたが、栽培してみたものの収量や品質が良くなく断念。(これって佐賀県の在来『神力』(別種)では?)

翌平成6年(1994年)、茨城県にあるジーンバンクで保存されている『神力系統品種群』39系統の中から7系統の種子を譲り受け、これを熊本県農業試験センター(当時)矢部試験地で系統選抜。
翌平成7年(1995年)には矢部町で現地試験し、良質種子を選抜。
平成8年(1996年)は各地での試験栽培の結果菊池地区を主力生産地に決定し、なおかつ良質の籾を選抜。

このようにして復活したこの品種は、まごうことなく熊本県が作り上げた酒米『神力』と呼ぶにふさわしいでしょう。
(無論、初代『神力』から見れば純系淘汰による子品種にはなるかと思いますが)


他福井県はよくわからんです・・・
『福井県産神力』について記述してる酒蔵の情報はあるにはあるんですが、正直書きぶりから内容が信用できません。
公的機関が記述した資料があるといいんですが・・・


育種経過

明治10年(1877年)に兵庫県揖西郡(現:揖保郡)中島村の丸尾重次郎氏が、有芒種である在来『程吉』の中に、無芒で籾の大きい3本の穂を発見し、選抜。
翌明治11年(1878年)に試験栽培し、2斗4升6合(約307kg)の籾を得ると同時に、当初は『器量好』(きりょうよし)と名付けました。
※文献により『器量能』の表記も有り

中島村では発見から3年目の明治12年(1879年)に本格的な栽培に入り、結果既存の品種よりも25%も増収となった上、米質もよく(当時基準)大粒と言う素晴らしい結果に、近隣の農家も種籾を譲り受けて栽培が拡大していったそうです。

明治15年(1882年)には揖西・揖東の平坦部のほとんどに普及し、明治19年(1886年)に余部村(現:姫路市)の岩村善六氏などと協議し『神力』と名を改めました。
岩村善六氏はこの『神力』の多収性や沿革を中央の農商工広報に載せて全国に紹介し、この後全国に普及していくことになります。

明治20年代の時点で大阪、京都、兵庫、徳島、香川、九州一円に広がりました。
明治30年代前半には神奈川県以西にまで広がり、40年には栃木県以西まで広がったとされています。

これだけの急拡大に対応するために、種子を改良して共同採取する「水稲神力採取組合」が揖西村に結成され、相当な努力のもと、この『神力』の急拡大に対応し、種子を供給したとされています。


系譜図

『神力』系譜図


参考文献(敬称略)

◯酒米「神力」の復活:佐々木定
◯「コシヒカリ」祖先品種の栽培特性と食味:福井県農業試験場 中岡史裕ら
◯日本の在来稲とその現状ーブランド米の祖先品種と現在の状況ー:公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構
〇ひょうごの農業技術No.111~特集 酒米生産現場の取り組み~:兵庫県立中央農業技術センター
〇広島縣農事成蹟要覧(大正六年七月刊行):広島県内務部
〇水稲育種のあらまし昭和十九年度:篠島淸作
〇水稲育種のあらまし昭和二十年度:篠島淸作
○米麦品種改良増殖事業概要 並 米麦原種穂事業成績:愛知県立農事試験場
○水稻優良品種ニ就テ : 京都府立農事試驗塲臨時報告

2020年2月22日土曜日

【酒米】山田穂43号~新山田穂1号~とは【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

系統名
 『山田穂43号(山田穂3号)』※管理人の推定
品種名
 『新山田穂1号』(しんやまだぼいちごう)
育成年
 『大正10年(西暦1921年) 兵庫県農事試験場』
交配組合せ
 『山田穂(在来)より純系淘汰』
主要生産地
 『兵庫県』
分類
 『酒造好適米』※現代の産地品種銘柄に依る


新山田穂1号「やまだ”ほ”じゃないからな。ついでにあいつの母親じゃないし」



 どんな娘?

古参品種であるものの、亀の尾や旭のような”概念に近い品種”達とは違うことに加え、休眠※1に近い期間が長かったせいか、肉体的・精神的にやや後退した状態になっています。
とは言え本人はだれよりも(当然山田錦よりも)先輩である意識はあるため、懸命に大人然として振る舞っています。
ただやはり体のひ弱さは隠せず、いざとなると平成の世でひ弱と言われる品種達にも敵いません。

そして
久々に世間に出てみれば、なぜか従妹(山田錦)の母親扱いされており困惑しています。
そんな状況に少し(かなり)不満あり。

※1
「休眠」と書くと、というか世間一般で復刻した品種が何十年も眠っていたかのように書かれていていることも少なくないのですが…ずっと種のまま保存されていると考える方もいるかもしれません。
しかし、系統保存されているってことはちゃんとほ場に植えられて、発生する異株を取り除いて、という純系を保つ作業をしながら「保存」されてます。(毎年だったり数年おきだったり幅はありますが)
なにもずっと眠り続けていたわけではありません。


概要

兵庫県でかつて栽培されていた品種で、酒造用米として非常に優秀とされた『山田穂』の子品種(純系淘汰)にあたるのが彼女です。

ちなみに「水稲及陸稲耕種要項(昭和11年3月発行):農林省農務局」では『新山田穂1号』についてフリガナが「シンヤマダボイチゴウ」になってますので、『山田穂』についても「やまだぼ」と”ぼ”と読むのが正式(のはず)です。

兵庫県農事試験場では在来種であった『山田穂』を県内各地から収集し、品種比較試験の結果優良として、明治45年(1912年)から原種(現代で言う奨励品種)に指定しています。
兵庫県の育成品種一覧に『山田穂(純系淘汰)』があることからも、この品種比較試験の際にある程度の選抜は行われた選抜種が原種(奨励品種)指定されていたものと思われます。
そして大正10年(1921年)、『新山田穂1号』が育成され、この1号が原種(奨励品種)に指定され、従来の『山田穂(純系淘汰)』は原種(奨励品種)から外れます。


純系淘汰で生まれたこの『新山田穂1号』は「『山田穂(在来)』よりも品質が優良で、酒造家に最も歓迎されている」との評価を受けていますから、やはり酒米として優秀・歓迎されていたことは確かなようです。

稈長はやはりかなり長く、100~120cmまで達するようです。
耐倒伏性はそのせいか「やや弱」の評価で、葉いもち抵抗性も「極弱」となっており、栽培がかなり難しいことが想像できます。
脱粒性については「やや易~易」、穂発芽は「やや難」。
玄米千粒重は25.8g(兵庫・平成8年)~26.3g(兵庫・大正14年)と大粒の部類ながら『山田錦』等には及びません。
心白の発現は少なく、小さい心白が形成されるようです。
タンパク質含量は6.0%以下と低タンパクで、酒造適性の高さがうかがえますね。


ちなみに妹に山田穂38号(8号)『新山田穂2号』が存在します。
1号よりも一年遅れの大正6年(1917年)選抜(純系淘汰)開始、大正11年(1922年)原種指定の彼女は、「『新山田穂1号』よりも草丈が低く栽培しやすい酒米」との評価を受けていますが、1号より4年早い昭和11年(1936年)に原種(奨励品種)から削除されています。
廃止の年、東播地方からは原種(奨励)存続の要望があったそうですが、その作付け面積は県内全水田面積の2%以下程度で、さらに年々減少していることから廃止やむなきとなったそうです。
現代に保存されている『新山田穂2号』は、稈長に関しては1号とさほど変わらないようですが、耐倒伏性は「弱~中」との評価もあり、比較して倒れにくい品種であることは確かなようです。
ただ、耐病性はさほど変わらず、心白の発現率や大きさも1号に劣っていたのも一足早くすたれた要因になったのかもしれません。


↑と、このように『山田穂1号』は『新山田穂1号』として、『新山田穂2号』は『新山田穂2号』として扱われていたことがわかります。
白鶴酒造のように(後述)”山田穂”の文字が入っているってだけでこれらが全部『山田穂』って言うのは少し(かなり)無理がありますね。
「神力」と言う異名もあった…とか知ってますか?(後述)


大いなる誤解~『山田錦』の母本…ではない

品種登録されているから遺伝的に近縁でも別、か
遺伝的に近縁だから品種は別だけど一緒、か
どちらにせよ主張は統一してください。
私の考えは「品種が別なのだから別」の一点に尽きます。
「山田錦の母親山田穂」表示をしている酒蔵側に有意なように都合よく立場を変えないでください(品種で区別するのは常識、と言いながら山田穂だけ近縁だからとか名前が似ているから区別しなくていい、とかダブスタ言い始めるのはやめてください)。

そしてコメントのように勘違いしている人もいるかもしれませんが
『新山田穂1号』を「山田穂」と表示していることを問題にしているのではありません。
『新山田穂1号』を「山田穂が正式名称で山田錦の母親だ」と宣伝していることを問題にしているのです。
明らかに違いますよね?
『短稈渡船』にしろ『山田穂』にしろ、「山田錦の親」を宣伝しておいて別品種を使っておきながらそのことを伝えていなかったり、さもその別品種が親であるかのように宣伝しているのですから明らかに問題があります。

※※※以下、ホームページの該当ページが削除されてしまいましたが、備忘録として残しています※※※

ということで、この『新山田穂1号』ですが、白鶴酒造株式会社のホームページではこのように紹介されています。

「幻の酒米、山田穂とは?
兵庫県が大正時代に在来品種である山田穂を純系淘汰することにより得られた品種で、新山田穂1号が正式名です。1936年まで酒造好適米として兵庫県で広く栽培されていました。酒米の王者と言われる山田錦は、この山田穂を母親として1923年に兵庫県で人工交配された品種です。


はて?
◯『山田穂』の正式名称が『新山田穂1号』?
◯そしてこの『山田穂(新山田穂1号)』を母親として人工交配したのが『山田錦』?
これでだいぶ世間様は混乱しているようで、『山田穂』と『新山田穂1号』がかなりごっちゃごっちゃに扱われています。
確かに『山田錦』育成の前年に『新山田穂1号』の育種は完了しているようですが…実際どうなんでしょう?

『山田錦』の育ての親である
兵庫県立農林水産技術総合センターに訊きました。
(ここ以上に確かな情報もっているところってあります?)

【回答】
「大正12年に交配母本に使用した「山田穂」が「新山田穂1号」である
との資料は、現在のところ当方にはありませんので、過去の資料に表記されて
いるように、交配母本は「新山田穂1号」ではなく「山田穂」と考えています。」



~~~~以上、終了~~~~

はい、この白鶴酒造の宣伝内容間違いですね。


兵庫県下でもともと栽培されていた①『山田穂』(在来)
そして県内各地のそれらを集めて純系淘汰したのが原種(奨励品種)にもなった②『山田穂』(純系淘汰)
そしてその後『山田穂』からさらに優秀な個体の選出を求めて純系淘汰法による選抜で生まれたのが③『新山田穂1号』

『山田錦』の母本となったのは②『山田穂』(純系淘汰)です。
そして②も③も純系淘汰で生まれた品種、と言う点でおそらく白鶴酒造は勘違いしてるんじゃないでしょうか。(まさか商業的な宣伝のために故意に間違えた情報を拡散している…なんてことは無いと信じていますよ)
お約束ですが、『短稈渡船』情報と並んでネット上では既にかなりこの誤情報が拡散しており、はたしてこの情報が修正される日が来るのか…

⇒詳細は山田錦の母親が『新山田穂1号』?白鶴酒造の謎主張まとめ【備忘録】

ちなみに兵庫県では『山田穂』と『新山田穂1号』の2つが産地品種銘柄に設定されていますが、『新山田穂1号』を使ったお酒が見つけられません…(あったら教えてください)
⇒白鶴酒造の「山田穂」はひとまず『新山田穂1号』のようです。
そもそもこの『山田穂』と設定されている方も本当に『山田穂』でしょうか?
「山田錦の母親を復活させました」の先駆者、白鶴酒造の発信する情報がこのありさまでは…これってすべて『新山田穂1号』なのでは?後述


新山田穂1号は山田錦の母親ではないのです


不満が募る『新山田穂1号』さん。
※※※以上、ホームページの該当ページが削除されてしまいましたが、備忘録として残しています※※※

現在栽培されている『山田穂』(兵庫県限定)


…ということで、調べてみたら出てきました。
株式会社本田商店の扱っている「龍力」という銘柄のお酒で使用されている『山田穂』はひとまず『山田穂』のようです。
平成9年(1997年)にJA北はりま(現JAみのり)が京都大学及び九州大学から『山田穂』の種子を取り寄せ16aで試作を行ったのが始まりであるようです。
『山田錦』よりも長稈で出穂登熟がやや早い系統で、翌平成10年には366a(13.8t)、さらにその翌平成11年は587a(24.15t)と生産量を増やした・・・とのことです。
ですが「山田錦の母親」とまで言っていいものかはまったくの不明・・・というか絶対別系統

あとは産地品種銘柄に設定されている「兵庫県産山田穂」は果たして『山田穂』だけなのか、前述の誤用法を元に『新山田穂1号』も含めて(非公式に)品種群扱いになっているか、ですが…調べるにも骨は折れそうですねというか知る手段はあるのか…
ひとまずJAみのり管内で取り扱っている『山田穂』は『山田穂』である可能性が高そうです。

というかこんな感じで「何を使っているかわからない」ってやっぱり問題でしょう・・・


※産地品種銘柄では「品種の確認」など行われないに等しので、農家の人が「これが山田穂」といって出せばどんなお米でも『兵庫県産山田穂』になります(冗談ではなく)。
実際『茨城県産渡船』は品種が何かもわかっていない(関東農政局確認済み)のに普通に検査数量出てますよね。


ちなみに同名異種もいます(取り違えなのか?それも含めて山田穂なのか?)

『新山田穂1号』は、その名前の品種名でジーンバンクおよび九州大学の少なくとも2カ所で保存されています。


DNA多型の解析により九州大学の方の『新山田穂1号』については『山田穂』などとだいぶ違う(ジーンバンクで保存されている『新山田穂1号』についてはちゃんと『山田穂』と似てる)ことがわかっており、これは長期にわたる保存期間のどこかで(あるいは最初から?)別の品種を取り違えて保存していたのではないかと推測されています。
もしくは同名異種か、遺伝多様性が非常に広いものだったか…今となっては確かなことは言えませんが…


九州大学の保存系統は『新山田穂1号』の名称で保存されていても実際は別の何か、の可能性が高いということですね。
…白鶴酒造の『新山田穂1号』はどこから持ってきたんでしょう…?
(白鶴の自称復活1991年頃、このことがわかったの2005年頃)


あとこれ以降は管理人の妄想というか難癖なのですが
「『山田穂』と『新山田穂1号』が非常に近縁だ」というのは現代に保存されている系統を解析・比較しての推論です。(「純系淘汰=非常に近縁」は明らかに認識が間違ってます
では、その”保存されている系統”は本当に『山田穂(在来)』なんでしょうか?
ジーンバンクで『滋賀渡船2号』が『渡船2号』として保存されているように名称が変わってしまっているパターンがあります。
現在兵庫県で保存されているのは『新山田穂1号』のみ。
九州大学の『山田穂』は畿内支場(大阪)からの取り寄せ(京都大学のものは不明)、『新山田穂1号』は兵庫県から取り寄せ・・・


これ、むしろ九州大学の『山田穂1号』が正常と言うこともあり得ます。(『山田穂』と大きく異なるのが本来の『新山田穂1号』だった?)
やらかしているのが兵庫県の方で、『山田穂』と『新山田穂1号』がごちゃまぜになって、後世に残った『新山田穂1号』の中身は『山田穂』・・・ということはあり得ます。いえ、本当にあり得るんですよ?
そしたら当然両者が近縁(実態はほぼ同じ品種系統だから)となります。
・・・という諸々不確定要素考慮すると専門の方なら「これが山田錦の母親だ!」なんて言い切ることは決して無いと思うんですが・・・

繰り返しになりますが、「山田穂から純系淘汰」という文章だけで踊らされて「『山田穂』と『新山田穂1号』は近縁で当然」とかいう認識を持っている方、それ間違いです。
そもそも「在来山田穂」という存在が均一・一律という前提で考えていると思われますが、遺伝的にも幅のある雑多な集団と「近縁」という考え方をするその前提からして間違っています。
大蔵省(当時)の醸造試験所報告第79号(大正8年)にはこんな記述があります。
「原料米の種類 神力(他所ニテハ山田穂ト称ス)」
さて?これは所謂明治の三大品種『神力』なのでしょうか?『山田穂』なのでしょうか?
具体例として一つだけ挙げましたがこういうこと(異名同種・同名異種・判別付かず)はざらにあるのがこの時代です。
「山田穂と『新山田穂1号』は近縁で当たり前」という思考の方、あなたは一体”何”と『新山田穂1号』が近縁だと断じているのか説明できますか?


育種経過

非常に古い品種なのでかなり情報は少ないです…

大正5年(1916年)、兵庫県農事試験場は在来品種『山田穂』から純系淘汰法により、より優れた品種の選出に取り掛かりました。

この時代の「在来」と呼ばれる”品種”は、遺伝子の固定が完全でない、もしくは地方で栽培される中で交雑する(もしくは単純な取り違い)などして、現代の品種の定義からは考えられないほど雑多で様々な性質を持っている集団でした。
現代で主流の交雑育種法では異なる2品種を交配し、その後代となる「遺伝的に雑多な集団」の中から優秀な個体を選抜しますが
純系淘汰法ではすでに在来種がこの「遺伝的に雑多な集団」として存在しているので、選抜から開始することが出来るのです。

純系淘汰開始時点で『山田穂(純系淘汰)』が普及に移っていましたが、県内各地から『山田穂』を集めるにあたり、雑多な集団を選んだとするのが自然ではないでしょうか(無根拠)
『新山田穂2号』と同じであれば『新山田穂1号』選抜素材も兵庫県内3郡から収集したはずです。
選抜目標は短稈でかつ品質が良く、多収の系統の選出とされていました。

大正6年(1917年)、前年選抜した104系統を各系統120株ずつ1本植えし、特性調査を実施、有望と見込める30系統を選抜します。
大正7年(1918年)の選抜経過は不明ですが、前後年の記録によれば、1系統につき5坪(16.5㎡)の区画を2箇所ずつ設け、生産力検定試験が実施されたものと思われます。

大正8年(1919年)、前年の収量調査で選抜した系統に対して同様に、1系統5坪の区画を2箇所ずつ普通栽培で収量試験を実施します。
この年供試されたのは『山田穂1号』~『山田穂5号』の5系統。
『山田穂2号』(成績順位1位)と『山田穂3号』(成績順位2位)が選抜されます。

大正9年(1920年)、水稲品種比較試験に『山田穂四二』『山田穂四三』が供試されています。
純系淘汰試験の記録が明記されていないのですが、前年の選抜系統が「4」年目の「2」号と「3」号であることから、前年の『山田穂2号』と『山田穂3号』について「42」「43」と系統番号を変更したものと推測されます。
同じ選抜経過(「4」年目)の『神力』についても、前年度「3」号と「5」号が選抜され、この年は『神力四三』と『神力四五』が供試されていることからも、これは間違いないと思われます。
また、地方委託栽培試験に『山田穂』の純系淘汰品種6系統『三七』『四三』『三八』『三九』『三六』『四二』が供試されています。
『四二』『四三』が後の『新山田穂1号』となる大正5年淘汰開始組、他の30番台は後の『新山田穂2号』となる大正6年度淘汰開始組と思われます。
美嚢郡、加東郡、加西郡、多可郡、氷上郡、養父郡で実施されたこの試験ですが、42号、43号はそれぞれ3郡で試験が行われます。
『山田穂42号』は「加東郡瀧野村 藤井小市氏(対照:奈良穂在来、37号、43号、38号)」「美嚢郡細川村 計倉周治氏(対照:36号)」「氷上郡柏原町 田川藤吉氏(対照:39号)」
『山田穂43号』は「加西郡芳田村 荒木彌三郎氏(対照:山田穂原種)」「多可郡中村 繁利岸本繁太郎氏(対照:山田穂原種、36号)」「加東郡瀧野村 藤井小市氏(対照:奈良穂在来、37号、42号、38号)」
でした。
結果、『山田穂四三』が多可郡、加東郡に適応していると認定されました。
他『三八』が多可郡、加東郡、美嚢郡に適応、『三九』が多可郡、氷上郡、美嚢郡に適応と認定されています。

そして翌大正10年(1921年)、原種圃に急に『新山田穂1号』が設定されています。
『山田穂42号』と『山田穂43号』のどちらが『新山田穂1号』となったのか明確な記述はありませんでした。
しかし地方委託栽培試験で『山田穂43号』が2郡に適応しているとの判断がされていることから、こちらが『新山田穂1号』になったものと管理人が推定しています。
※同じ地方委託栽培試験で「適応」の判断が下された『山田穂38号』『山田穂39号』が大正10年度の最終生産に供試(『山田穂八(後の『新山田穂2号』)』『山田穂九』)されていることからも、この推測の根拠になっています。



この時代の育種(選抜)は特に収量に重点が置かれていたようで、在来『山田穂』よりも反収が多くなることが最低条件だったようです。
試験場での成績では在来『山田穂』367.95kg/反に対して、『新山田穂1号』383.55kg/反と15.6kg/反の増という記録が残っています。(1石=150kg換算)
また純系淘汰の試験を通して、原種圃の『山田穂』よりも稈長が常に約15cm程度短かったようです。

原種設定以後、昭和15年(1940年)まで原種(奨励品種)指定が続いたそうですが、後代品種の台頭により徐々にその姿を消したことが想像されます。

昭和11年(1936年)の記録では『山田穂1号』作付面積3,198ha(兵庫県内水田の約3%)、収穫高76,112石(反収2.380石)と言うものが残っていました。
この時の『新山田穂2号』は1,777ha(県内水田の約2%)、収穫高42,470石(反収2.390石)となっていました。


そして平成の世になぜか「山田錦の母親」と称されて復活中なう。(絶対に違うけど)



系譜図

山田穂43号『新山田穂1号』系譜図



参考文献

〇業務功程 大正4、6、8~14年度:兵庫県立農事試験場
〇水稲試験成績(大正4~5年度成績):兵庫県立農事試験場
〇米麦試験成績(大正6年度成績):兵庫県立農事試験場
〇農事試験報告(大正7年度成績):兵庫県立農事試験場
〇酒米を中心とした水稲遺伝資源のDNA多型:兵庫県農林水産技術総合センター研究報告.農業編
〇酒米品種「山田錦」の育成経過と母本品種「山田穂」、「短稈渡船」の来歴:兵庫農技総セ研報
〇新山田穂1号の品種特性:
〇ひょうごの農業技術No.111~特集 酒米生産現場の取り組み~:兵庫県立中央農業技術センター
〇水稲及陸稲耕種要項(昭和11年3月発行):農林省農務局:兵庫県立中央農業技術センター
○醸造試験所報告第79号(酒造米ノ理化学的調査):醸造試験所

関連コンテンツ

『新山田穂1号』は『山田錦』の母親?
 ↑違う違う。これは間違いなく違う。

じゃあ父親の『短稈渡船』は『渡船2号』でしょ?
 ↑違う違う。の根拠となった調査結果一覧は以下の通り







2017年8月1日火曜日

【酒米】山渡50-7~山田錦~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

試験系統名
 『山渡50-7』
品種名
 『山田錦』
育成年
 『昭和12年(西暦1937年) 兵庫県立農事試験場』
交配組合せ
 『山田穂(純系淘汰)×短稈渡船』
主要産地
 『兵庫県』
分類
 『酒造好適米』



現行栽培品種の中でも最古参に含まれる『山田錦』の擬人化です。


どんな娘?

米っ娘の中でも最年長の部類に入り、非常に落ち着き払った振る舞いで他品種の信頼も厚い。

人間からは「酒米の王様」と祀り上げられているものの、驕るような態度は一切見せず、酒米の長として皆をよくまとめている。

実は一時期自分と同世代の品種がほとんど居なくなり、内心寂しい思いをしていたが、近年古参品種の復刻が多くなったことを密かに喜んでいる。



概要

酒造好適米の代表的品種とされ、低タンパク、大粒、良好な心白と三拍子揃っており、特に豊潤な日本酒が出来ることから「酒米の王様」とも呼ばれます。
しかし反面稈長が長く、倒伏しやすい上、いもち病、縞葉枯病に弱いことから、栽培は非常に難しいとされています。
だがしかし、『山田錦』から作られる日本酒の人気・知名度、蔵元の評価はやはり高く、平成21年より酒造好適米の検査数量1位を誇っています。

日本酒(正確には酒蔵)にとって一種の登竜門、全国新酒鑑評会(関連記事~鑑評会で使われている酒米品種は?~においても「YK35」という、ある意味神格化にも似た絶対的な扱いをされることもあります。
「YK35」…【『山田錦』を使用し”Y”】【きょうかい酵母9号もしくは熊本酵母を用いて(K)】【精米歩合を35%まで高めれば(35)】(各種説あり)良い酒が出来て、新酒鑑評会でも金賞を取れる、という俗説。


今でこそ「王」とまで呼ばれる『山田錦』ですが、育成完了後の昭和12年(1937年)から、当初の滑り出しは不調だった様子。
いままで県外産の酒米を買い付け、その酒米での酒造に慣れていた兵庫県内の杜氏からは中々使ってもらえなかったそうです。
そんな状況を変えたのが皮肉にも太平洋戦争だったとか。
昭和17年(1942年)に戦時下の統制で県外からの米の買い付けが出来なくなり、使用できる酒米が県産の『山田錦』だけとなってようやく(半ば強制的に)使用されることで、その優秀さが認識されることになったそうです。

昭和38年(1963年)にその作付けは10,843haとピークを迎えますが、やはりその栽培特性からか(米余りの時代になるにつれ)次第に敬遠されはじめ、昭和59年(1984年)には1,974haまで作付面積を減らします。
しかし酒造適性の高さからその価値が見直され昭和60年(1985年)から再増加を開始、平成6年産(1994年)には5,202haまで復活。
その後もしばらくは『五百万石』の後塵を拝して作付面積2位でしたが、「味」の酒造好適米を求める風潮は年々強まり、平成21年(2009年)についに(統計変わって「検査数量」で、ですが)『五百万石』を抜いて酒造好適米1位に返り咲きました。

2017年現在、全国的に栽培されているものの、誕生地である兵庫県での生産が大多数を占めます。
特に兵庫県三木市、加東市の一部は特A地区としてこの地区産の『山田錦』が珍重されている…のですが、これはあくまで栽培地域の歴史的経緯によるランク付けであることには注意が必要です。(生産される『山田錦』の酒米品質を必ずしも反映しているわけではないので、毎年品質に応じて更新される食用米の地区指定とは全くの別種です。)



育種経過


以下、判明している育種経過を記載しますが、育成地である兵庫県立農事試験場は昭和20年7月6日の明石大空襲によりほとんどの施設が焼失し、育成関係の野帳等の資料が失われています。
さらに
『山田錦』が注目され始めた頃には、既に育成に携われた方もお亡くなりになっており不明な部分も多い、というのが実情です。

その人工交配は大正12年(1923年)まで遡ります。
兵庫県立農事試験場において母本『山田穂(純系淘汰)』、父本『短稈渡船』として、担当者西海重治氏によって人工交配が行われます。(交配地については大阪の畿内支場説もあるものの、記録に残る限りその可能性は非常に低いようです)
『山田錦』の母親となった『山田穂』は明治45年(1912年)に兵庫県初の酒米奨励品種として指定されていたものでした。


◇母本『山田穂(純系淘汰)』
もともとは明治のはじめのころから兵庫県の各地で栽培されていた在来品種『山田穂(在来種)』です。
兵庫県立農事試験場では各地から『山田穂(在来種)』を取り寄せ、品種比較試験(同時に適度に純系淘汰が行われたものと思われ)を行い、成績優良であったことから明治45年(1912年)に『山田穂(純系淘汰)』が原種(奨励品種)に指定されます。
大正5年(1916年)からは純系淘汰法による育種にも取り組まれ、大正10年(1921年)には『新山田穂1号』、大正11年(1922年)『新山田穂2号』が育成され原種に指定されています。
従来の『山田穂(純系淘汰)』はこの際に原種から外されました。
※白鶴酒造ではなぜか子品種の『新山田穂1号』を「『山田錦』の母親」と宣伝していますが、経過を見ればわかる通り母本は『山田穂(純系淘汰)』です。

◇父本『短稈渡船』
大正7年(1918年)に滋賀県農事試験場で育成された品種を取り寄せたものと言う推測もありますが、真相は不明です。
『滋賀渡船2号』ではありません。※関連コンテンツ参照
滋賀県の在来種『渡船』系統の純系淘汰品種であると推測されますが、滋賀県側にはそのような名前の品種は無いので正体は不明です。
兵庫県の『新種B』が『短稈渡船』・・・かもしれません。
滋賀県の他の『渡船』系統選抜品種・・・かもしれません。
【関連】滋賀渡船「2号」「4号」「6号」である理由 滋賀県立農事試験場育成品種


大正13年(1924年)F1世代(雑種第一代)の個体養成が行われ、大正14年(1925年)に栽植したF2世代(雑種第二代)500個体の中から50~70個体を選抜します。
昭和元年(1926年)F3は2系統7個体を選抜。
昭和2年(1927年)はF4を48系統栽植、その中から10系統を選抜。
昭和3年(1928年)に兵庫県加東郡社町(現:加東市)で産地適応性試験が行われました。系統番号『140』『143』『144』『148』『149』『159』『161』『163』『178』『179』10系統の中から優良1系統『161』が選抜されます。
昭和4年(1929年)F6世代は生産力検定と並行して6系統栽植、内1系統(15個体)を選抜。
昭和5年(1930年)は15系統栽植の中から10系統45個体を選抜。

昭和6年(1931年)には45系統の中から8系統22個体を選抜、『山渡50-7』という系統名が与えられ…たことに「米麦原種一覧表」ではなっています、が
試験場では昭和7年までは『大粒50-7』
酒造米試験地では昭和8年まで『山田穂×短稈渡船50-7』『山×短50-7』
などと記述はバラバラであり、当時は現在ほど厳密に系統名が決められていなかったようです。(『辨慶(伊豫辨慶1号)』も兵庫県では『純系1045号』・『辨慶1045』・『辨慶1045号』・『辨慶』と記述がバラバラですし、系統名どころか品種名すら雑な時代でした)

翌昭和7年(1932年)からは酒造米試験地でも生産力検定試験が開始されます。
昭和8年(1933年)、『山渡50-7』は”短稈多げつにして収量多く品質も概して良く栽培容易にして有望と認めたり”と評価され、収量性や栽培特性が優れ、有望視されています(16系統→3系統12個体選抜)。

昭和9年(1934年)の生産能力比較試験においても、前年度と同じく収量性・栽培特性の優秀さから有望視される記録が残っています。(13系統→3系統12個体選抜)
また、この年から少肥栽培による水稲品種比較試験も行われていますが、『山渡50-7』系統は供試されていた大粒種6品種の中でも収量、品質共に上位となっています。

この年から地方委託試験も開始され、城崎郡五荘村で栽培・試験。
昭和10年(1935年)F12世代は18系統から4系統16個体を選抜。

昭和11年(1936年)1月31日、水稲原種改廃協議会で『山田錦』と命名され、原種(現代でいうところの奨励品種)として採用されました。
当初は『昭和』と命名される予定だったらしいのですが、最終的に名称変更されています。
あくまでも推測で、当時の山形県で栽培されていた『昭和◯号』(民間育種家・佐藤弥太右衛門氏育成『昭和イ号』~『昭和ヌ号』9品種)との混同を避けるためではないか?との説がありますが、明確な記録は残っていません。
この年は16系統の中から5系統20個体を選抜。

育成の最終となる昭和12年(1937年)、F14世代18系統の中から3系統11個体を選抜し、育種を完了しています。(なお、系統選抜は原種栽培と同時並行で行われていました。)
なお、育種全体を通して醸造試験、つまり日本酒造に適しているかどうかについては判定されていません。
酒造に適しているとされている両親を持つから当然、子品種である『山田錦』も同様に酒造適性が高い、とも言えるかもしれませんが・・・
どの程度酒造に適しているかどうかわからないまま育成された品種が、後年長らく最上級品種として扱われるとはなんとも不思議な話です。


※【要注意】
おそらくネット上では滋賀県育成の『滋賀渡船2号』を、”『山田錦』の父本『短稈渡船』”断定していることが圧倒的に多いかと思いますが、それ、すべて間違いです
あくまでも推測、仮定の話でしかないものが、さも事実であるかのように流布されているですので注意が必要です。
それなら私は「『短稈渡船』は『新種B』である」と断定しましょうか


系譜図


『山田錦』系譜図



参考文献

〇酒米品種「山田錦」の育成経過と母本品種「山田穂」、「短稈渡船」の来歴:兵庫農技総セ研報
〇兵庫県立農事試験場業務功程大正各年度

山田錦の父親『短稈渡船』とは?その正体を推測する【墨猫独自論】


















蛇足【過去のウィキペディアの誤表記による誤情報の伝播】

恒例のウィキペディアなのですが「短稈の長さが130cm」との表記(2017年10月修正済み)
これを真似したのかネット上でも「山田錦は短稈が長い」との表記もチラホラ…
稲の稈の長さについては、(そのまんまですが)『稈長』と言います。

「稈長」「短い」ものを『短稈』と言うのですが・・・(人間で「足」「短い」人を『短足』と呼ぶように)
短稈が長い』では、『短足が長い人』(え?足が短いの?長いの?)のように意味不明です。

※【正】山田錦は稈長が長いので倒伏しやすく栽培が難しい品種です。








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