2020年4月13日月曜日

【粳米】~愛国~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

地方系統名
 『ー』
品種名
 『愛国』(系品種群)
育成年
 『明治25年(西暦1892年) 宮城県 窪田長八郎氏ら』
交配組合せ
 『身上早生より選抜』
主要生産地
 『ー』
分類
 『粳米』
愛国「僕たちが愛国さ、よろしくね」





どんな娘?

米っ娘たちのとりまとめ役、太夫元六米の一角。

明治の三大品種の一角。
出で立ちや口調からはまったく想像できないが、行動にはかなり粗野な部分が目立ち、遭遇(?)した米っ娘(若手)達が挨拶がてらに尻や頭をひっぱたかれるのは日常茶飯事。
神経もかなり図太く、驚くことを知らないと噂されるほど。
仕事ぶりに関しても、同期の神力も周囲からは「雑」と批判されることがありますが、愛国に関してはそれ以上で、かなりいい加減。
書類仕事など任そうものなら文字の判別と、書類の並び替えにかなり苦労を強いられるため、太夫元六米の中でも仲裁や見回りなどの肉体労働を割り振られているようです。

と、なにかと敬遠されるように思われる愛国ですが、旭・亀の尾と組めば互いの長所短所を補うことができるからか、見違えたような働きを見せます。
しかしやはり1人で出歩いているのに会うと、他の米っ娘(若手)達には警戒される様子。


一人称は「僕たち」。
他の太夫元六米(や「在来」と呼ばれる品種)は性質や熟期も幅広い(固定が不十分な)ことが多いですが、特に『愛国』は『神力』と並んで純系淘汰で正式に固定した子品種が作出される以前の段階で早生・中生・晩生が存在していたせいか、時折性格のブレが生じることもあります。


概要

西の『旭』に東の『亀の尾』は有名どころですが
それ以前の明治時代に西の『神力』、東の『愛国』と称され、『亀の尾』も加えた三大品種に数えられたのがこの『愛国』(系品種群)です。
前者は良食味品種として東西の双璧に数えられましたが、後者は類を見ない多収と言う意味での東西の双璧…と言えるでしょうか。

W◯kipediaでは「細かくは早生愛国、中生愛国、晩生愛国など多数の品種がある」とされていますが、厳密にはそれは後代の子品種達であり、それらを含めるのであれば他の在来品種達と同じように『愛国系品種群』と呼ぶのが正確と思われます。
本来の品種としての『愛国』は舘矢間村館山で選抜されたもの、それだけなのでしょう。、明治初期はまだ公的機関による純系淘汰、及び固定がまだ盛んでなかったため、地方ですでにこのような在来種としての分化(もしくは品種の取り違い)が進んだようです。
ただ後述しますが、最盛期に普及したのは基本的にそのさらに後代となる、正式な純系淘汰子品種達です。

生まれた時代は明治初期。
明治6年(1873年)の地租改正により、農民は豊作・凶作にかかわらず一定の税金を納めなくてはならなくなり、生活はより一層苦しいものとなり、諸県では一揆が起こるほどでした。
そんな中ですから、税金を納めるためにより多くのお米がとれること、そして仮に天候の悪い年にも多くのお米がとれることが強く求められました。
つまりより多収で耐病・耐冷性に優れた新品種が求められていました。
そんな時代、多収(少肥下でもそれなり)に加えて耐病性・耐冷性の非常に高い『愛国』は、外観や味の悪さから安値では取引されたものの、炊くと釜増えする特徴が米消費量の急増する時代に合致しており、『神力』(本来の晩生の『神力』と推測される)が作付け出来ない東日本、特に関東圏を中心に広まりました。
戦前は朝鮮や台湾にまで栽培地が広がったと言います。

『愛国』(系統品種群)は明治時代後半から昭和時代の初めまで東北、北陸、関東の各地方を中心に全国に広く普及し、特に東北では昭和元年(1926年)に最大の約8万haとなりました。
しかし『神力』(系統品種群)が大正時代にかけて『旭』と入れ替わっていったのと同じく、『愛国』の後代品種に切り替えが進んでいきます。
まずは『銀坊主』の登場によりその作付けは入れ替わり、さらにその後徐々に後継の新品種に置き換わっていき、昭和14~19年(1936~1955年)にかけて奨励品種から姿を消し、昭和28年(1953年)には完全に姿を消したと言われます。

ちなみに、大正15年時点で
宮城県では『愛国1号』や『早生愛国2号』などの早熟系、岩手県では『中稲新愛国』『晩稲新愛国』、山形県では『中生愛国』(晩稲と評価)など、熟期だけで見ても多様な品種群であったようでした。

また、農商務省農事試験場陸羽支場が純系淘汰により育成した『陸羽20号』が
新潟県では『陸羽20号』として
また岐阜県と福島県では『愛国20号』の名前で
長野県では『陸羽愛国20号』の名前で
それぞれ普及していました。

このように異名同種もあったわけですが、同じく農商務省農事試験場の畿内支場が純系淘汰で育成した無芒愛国が茨城県や石川県で奨励品種になっていたようですが、同じような純系淘汰で埼玉県が無芒愛国埼1号』を普及していました。
そして福島県では同じような名前の無芒愛国25号』と言う品種がありました…が
この福島県の『無芒愛国』は畿内支場育成の『畿内早生25号』(『穀良都』×『愛国』)という、交雑育種で生まれた完全な別物です。
〇『無芒愛国』(茨城・石川)=畿内支場(純系淘汰)育成品種
〇『無芒愛国埼1号』(埼玉)=埼玉農試(純系淘汰)育成品種
〇『無芒愛国25号』=畿内支場(交雑)育成品種『畿内早生25号』別名


同名異種と言う点ではさらに

先に述べた岩手県の『新愛国』、さらに長崎県には『改良愛国2号』が奨励品種になっていましたが、これらは在来『愛国』より純系淘汰によって育成されたことになっている※1ので、一応『愛国系品種群』と言えます。

しかし、群馬県、新潟県、石川県、和歌山県で普及していた『改良愛国』については、農商務省農事試験場畿内支場(大阪府)が『信州金子』と『愛国』の交雑育種で育成した明確な子品種『畿内早生22号(畿内早22号)』になります。
そして同じ名前の『改良愛国』ですが、山梨県については『畿内早56号』(『信州金子』×『愛国』)からの改名となっており非常にややこしいデス。※2
同じような名前ですが、後者は『愛国系品種群』とは明確に一線を画す存在となります。
この『畿内早生22号』は長野県ではその名前のまま、栃木県では『畿内千石』との品種名で普及しました。
こういった複雑で似たような品種名が多く有り(昔の品種にとってはある意味常態化していますが)非常に判別しにくく、紛らわしいですね。

※1農商務省畿内支場の記録では長崎県の『改良愛国2号』も『畿内早生22号』ということになっていると西尾敏彦氏は書いており、どちらが正しいかはわかりませんが、西尾氏の記述はところどころ怪しい気が…
※2農商務省畿内支場の記録では全て『畿内早生22号』になっていると西尾敏彦氏は書いており、どちらが正しいかはわかりませんが、西尾氏の記述は(以下略


まぁすべては謎と言う事です(ぶんなげ)


稈長は110センチ前後まで伸びるようで、昔の品種にもれずかなり背の高い品種のようです。
こういう情報は現代のジーンバンクに依りますので、当時は…これでも倒伏に強い方だったのでしょうね。


『コシヒカリ』との関連性


『愛国』の『コシヒカリ』につながる系譜としては、2系統あります。
『コシヒカリ』の母親『農林22号』のさらに母親『農林8号』、そして『コシヒカリ』の父親『農林1号』のさらに父親『陸羽132号』です。

まずは『コシヒカリ』の母方の祖母に当たる『農林8号』の母親、『コシヒカリ』から見て曾祖母が『銀坊主』となっています。
この『銀坊主』は、富山県婦負郡寒江村の石黒岩次郎氏が明治40年(1907年)2月に『愛国』を試作した際、施肥量を間違いやり過ぎてしまった、というある意味失敗から見出された品種です。
1畝(約100㎡)ほど作付けされた『愛国』はほとんどがべったりと倒れてしまいましたが、その中に茎が強く、倒伏しない明らかな変種を見つけました。
耐肥性、及び耐倒伏性に優れているこの品種が『銀坊主』と名づけられました。
『銀坊主』は出生地の富山県、そして北陸の石川県、福井県にも普及(純系淘汰後代も作出された模様)したようです。

次に『コシヒカリ』の父方の祖父に当たる『陸羽132号』の父親、『コシヒカリ』から見て曾祖父が『陸羽20号』となっています。
この『陸羽20号』は農商務省農事試験場陸羽支場が『愛国』から選抜した品種であり、福島県や岐阜県では『愛国20号』の品種名で普及していました。(長野県では『陸羽愛国20号』、新潟県では『陸羽20号』と呼び名には幅があったようです。)
在来の『愛国』よりも7~10日程度出穂期が早い(福島県:当時)ため、冷害の回避に有利とされ、さらに短稈で茎も強く、多肥栽培に耐えることが出来る米質良好な品種とされています。

このように『愛国』の血が現代に繋がっているというわけです。
『コシヒカリ』における穂ばらみ期耐冷性は長らく「極強」とされており(2015年以降の基準で「強」)、その耐冷性を生かした『ひとめぼれ』を代表とする後代品種も多く育成されましたが、この『コシヒカリ』の耐冷性の由来になったと言われているのがこの『愛国』です。
食味の点では当時から褒められていたものではありませんでしたが、現代の耐冷性の始祖として、その遺伝子は現代の稲品種にとって非常に重要なものとなりました。



育種経過


明治22年(1889年)、静岡県南伊豆郡朝日村(現在の下田市)の養蚕家、外岡由利蔵氏から宮城県舘矢間村館山(現在の丸森町舘矢間)の養蚕家、本多三學氏が無名の種籾を取り寄せたことに始まりました。
(※本多三學氏についても「本三學」の誤表記がままあるそうですが、この件に関しては直接子孫の方に確認が出来ており、「本多(夛)」が正しい表記です。)

外岡氏、本多氏両名は共に養蚕家として同業者であり、風交倶楽部の俳句仲間として親交の縁があったそうです。
ところでその種籾を受け取った本多三學氏ですが、なんと水田は所有していなかったということで、舘矢間村小田の篤農家、窪田長八郎氏に試作を依頼します。
初年の明治23年(1890年)は出穂が遅れ、採れた種子はわずかだったと言います。
ただし翌明治24年(1891年)は成熟が3日早まり、それなりの量を収穫できました。
これは明治23年の際に取れた種子がわずかだったことから、宮城県でも登熟出来る、つまり出穂期の比較的早い個体が自然に選抜されたことがうかがえます。

そして明治25年(1892年)、窪田長八郎氏に加え日下内蔵治氏、佐藤俊十郎氏、佐藤伊吉氏らが試作を行います。
この年はさらに前年と比較して成熟が3~4日、初栽培の明治23年から比べれば約1週間早まり、成績は良好とされました。
舘矢間村大字小田の日下内蔵治氏の試作したものが最も収量が多く、反収2石8斗あまり(約420kg/10a)に達しました。
坪刈り調査に訪れた伊具郡書記、森善太郎氏と、同郡米作改良教師、八尋一郎氏により、これほど素晴らしい稲が無名であることを嘆いて、『愛国』と命名したと伝わります。
※日清戦争(1894~1895年)を間近に控えた時期であったことから『愛国』としたと言われています。

取り寄せた種籾の品種については諸説あったのですが、元宮城県古川農業試験場長佐々木武彦氏の研究により、高橋安兵衛氏が選抜・育成した『身上早生』であることが判明したとされています。
宮城県立農事試験場で、初期の『愛国』と静岡県賀茂郡竹麻村で栽培中の『身上早生』を比較栽培し、両品種間にほぼ差が無い事を確認していることからも、間違いない情報と言えそうです。
※『赤出雲』由来説は、『愛国』の普及状況や証明となる根拠において整合性がないか不明瞭であることが証明されています。

食味の悪さは兎も角、多収で耐倒伏・耐病性・耐冷性に優れているという栽培性の高さを実現したこの『愛国』は、伊具郡内は無論のこと、宮城県内全域に急速に普及しました。
この元となった在来『愛国』からは、宮城県で『早生愛国』『中生愛国』が選出された…そうなんですが、どうにも宮城県の奨励品種の中には見受けられません…情報求ム
もしかしたら『愛国1号』(中生?)と『早生愛国2号』(早生?)のことかもしれませんが…

兎に角、他にも全国各地で純系淘汰の系統品種群が多く育成されることになります。
そうして東日本を中心に広がり、『愛国』系品種群は明治時代に三大品種に数えられるまでに至ります。

そして『陸羽132号』、『銀坊主』などへその血は受け継がれ、日本の水稲品種の基礎を築いていくことになります。


系譜図

『愛国』と『身上早生』は宮城県の試験でほぼ同じとはされていますが
育成の過程を見ると成熟期が1週間早くなっており、やはりこの点で別品種と呼ぶことはできると思います。
『愛国』系統図

参考文献

〇水稲「愛国」の起源を巡る真相:佐々木武彦




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