2021年2月7日日曜日

現代の『雄町』とは?幻の酒米の出生を追う


酒造好適米『雄町』。
”オマチスト”と呼ばれる『雄町』を使用している(かどうか本当のところはわかりませんが)日本酒のファンを指す独自の言葉があるほど人気の酒米です。

一時期は作付け面積が10ha台にまで減少しましたが、その後、良質米生産の気運の高まりと共に作付け面積・生産量は増加。
酒米生産量(検査数量)のトップ5に名を連ねるほどになりました。

そんな『雄町』、日本酒業界界隈に於ける謳い文句はこのようなもの

・幻の酒米!
・日本最古の酒米!
・160年前に発見され、ずっと栽培が続けられている酒米!
・人の手による品種改良が加えられておらず、混血のない日本古来の原生種!

まぁそんな訳ありませんよね、という。
日本酒業界の酒米知識は基本的に「三国志演義」のような創作物と思った方が安全です。(全部が全部そうとは言いませんが傾向としては創作の気が強い)
それ自体を楽しむのは構いませんが、史実は史実として存在します。

彼女は一体何者でしょうか?
ネタバレ防止のため、頬数字にちょっとモザイクがけ(…でも見えるかな?)

日本酒業界の妄想を元に史実を語る方が稀にいらっしゃいますので、以下現在栽培されている『雄町』について、現存する記録を元にその出生を追ってみたいと思います。


目次




1.現代における『雄町』とは

最初に一番大事なところ、現代における(栽培されている)『雄町』とは何を指すのか、定義しておきましょう。
”各地に適応した『雄町』が栽培されている”なんて言っている蔵もありますが果たして?

令和2年度現在、『雄町』を産地品種銘柄に設定しているのは
千葉県(回答あり)、大阪府(聞いてない)、岡山県(回答あり)、広島県(回答がない)、香川県(回答あり)、福岡県(回答がない)、大分県(回答がない)
の1府6県です。

その中で『雄町』の原種を管理・配布しているのはおそらく岡山県のみです。(なお、広島県の産地品種銘柄「雄町」は交雑育種育成の『改良雄町』という別品種。原種管理・配布は広島県で実施と思われる。)
と言うことは
必然的に全国で栽培されている『雄町』とは、「岡山県農林水産総合センターで原種管理しているもの」から生産された種籾を使っているのが大半ということになります。
無論、自家採種を行うなどしている農家がいること自体は否定しませんが、岡山県が公表している『雄町』の原種圃10a、採種面積は4ha、岡山県における『雄町』作付け面積は同年で約520ha。
中苗植え、1箱当たり100g播種し、1反当たり30箱使用すると仮定すると、1反当たり必要種子量は3kg。
520haの水田作付けに必要な種籾の量は約15,600kg。
岡山県が全国の『雄町』作付けの少なくとも98%を占めているため、全国分を考慮しても約16,000kg。※世間一般では「95%が岡山県産」とされますが、ここでは「広島県産雄町」が別品種であることを考慮して計算しています。
15,600~16,000kgを採種面積4haで割ると、採種圃における反収は390~400kg・・・『雄町』が反収500kg程度であると仮定しても2割程度はロスする余裕があるように見受けられます。
世の中の『雄町』の殆どは岡山県の種子を使用していると見てそれほど大きな誤差は無いと思われます。


ここでいう「現代の『雄町』」とは?
「岡山県が原種管理している品種に依るもの」と定義します。
現代において「備前雄町」「赤磐雄町」「広島雄町」「讃州雄町」といった「各地に適応した雄町の純系」が栽培されている、なんてことは無くて(あっても極少数か、そもそも純度や系統管理に疑問が残ります)、この「岡山県の原種」に由来している同一の品種『雄町』です。

ではその「岡山県が原種管理している品種」、それは一体何者でしょう?
いつから岡山県はそれを『雄町』として定めたのでしょうか?


2.岡山県『雄町』の各種来歴説について

世間一般では「大正11年育成」としているものが多いようですが…?
これも実は書籍により内容が異なります。

私が確認できた4つの説を以下紹介します。



■大正11年育成系統・説

◇「水陸稲・麦類・大豆奨励品種特性表 平成28年度版」
農林水産省政策統括官付 編

ここでは「来歴/育成場所/育成年」について以下のように記載されています。

「在来種の純系淘汰/岡山農試/大11(大正11年)」

農林水産省がとりまとめたものですが、内容については各都道府県が作成しているでしょうから、岡山県の公式としては「現在の雄町は岡山農試で大正11年に純系淘汰で育成された系統」と定義されているのでしょう。

「酒米ハンドブック」や「米品種大全」などでも、これを踏襲して「岡山県の『雄町』は大正11年育成」としています。


■第2次選抜系統(大正11年育成)・説

◇「酒米の岡山(岡山県酒造好適米格差金制度10周年記念誌)昭和37年」
岡山県酒造好適米格差金制度10周年記念会 発行

この書籍においては次の記述がされています。

「本県農業試験場の品種試験の成績により、明治41年奨励品種に採用され、その後大正11年、第二次純系淘汰の選出系統を以て置き換え、今日に至っている。」(原文まま)

岡山県公式と育成年は同じですが、より記述が具体的で「第2次選抜系統『雄町』(T11育成)」が現在の系統であるとしています。



■第3次選抜系統(大正11年育成)・説

◇「岡山県における水稲品種の変遷 平成12年3月」
岡山県農業共済組合連合会 発行

この中では以下のように記述されています。

「現在栽培している雄町は、大正10年からの第3次の純系淘汰によって作られた固定系統です。」(原文まま)

「大正11年育成」は踏襲しています(後述)が、前者と違うのは「第3次選抜系統『雄町』(T11育成)」が現在の系統としている点です。
以下同じ書籍より

「奨励品種になったのが明治41年(1908)、しかしながら育成年月日がそれよりずっと遅い、大正11年(1922)となっています。これはさきほど述べたように雄町を3回に渡って純系淘汰を行い、大正10年(1921)からの第3次の育成系統が、現在の雄町となっているので、こういう矛盾が出て来ています。」(原文まま)

岡山県の公式である「大正11年育成」はこの説のように3次選抜を指しているのでしょうか?
前述の2次選抜なのでしょうか?
しかしもうひとつ、現代の『雄町』系統について言及している書籍を見つけました。


■第1次選抜系統(大正8年奨励)・説

◇「水稻及陸稻耕種要綱 昭和11年3月発行」(昭和8年度調査内容)
 大日本農會 発行

この書籍における岡山県「(ロ)主要品種の来歴」では、『雄町』について次のような記述があります。

(以下、現代漢字・ひらがなに打ち替えております。)
「慶応二年本県上道郡高島村大字雄町にて選出せる品種にして、明治四一年奨励品種とし、更に大正三年より純系淘汰を加え、同八年同一名称の下に奨励品種とせるものなり」

昭和後期~現代では「大正11年育成」とされているものが、ここでは「大正8年奨励品種にした」となっています。(つまり大正11年より前に育成された品種系統と言うこと)
詳しくは後述しますが、選抜開始年と育成完了年から、これは大正期における『雄町』の第1次選抜系統の事と推測されます。



以上4つの説を紹介しましたが、いずれも内容はばらばらです。
前述したように現代の書籍やホームページの多くは(当然と言えば当然ですが)岡山県公式の「大正11年育成」を取り上げており、世間一般の認識も恐らくこれが一番多いことが推測されます。

では実際は?

早速『雄町』と呼ばれた品種の初めから辿ってみましょう。


3.【実際辿ってみよう】明治時代の雄町

1859年(安政6年)の鳥取県の伯耆大山への参拝の帰りにおいて、備前国上道郡高島村雄町(現在の岡山市中区高島)の篤農家・岸本甚造氏が2本の変わり穂を発見して持ち帰り、1866年(慶応2年)に『二本草』と名付けてから後(起源については諸説有り)、1868年より明治の時代へと入ります。

備前国上道郡高島村“雄町“に良い品種があるとの噂が広まり、その作付け面積は岡山県一円に増えていったとされます。
それがいつしか地名を取って『雄町』と呼ばれるようになりました。
これは種子の管理者もいない状況で、各地の農家がそれぞれ思い思いに採種をしているような状況です。
この段階における『雄町』と呼ばれるモノは、初期の『二本草』ともまた異なる、現代の基準では品種とも呼べないほど雑多な集団となっていたことは想像に難くありません。
また、おそらく全く別の品種が”雄町”の名称で広められるようなことも起こっていたでしょう。

岡山県農事試験場ではそんな品種群『雄町』を優良であるとして明治41年に原種(奨励品種)に指定しています。
そして『雄町』について試験場で淘汰・選抜を実施し、より優良な系統の配布を実施しています。
実際は試験場が発行している報告書に「純系淘汰育種を実施」という明確な記載は無いものの、淘汰が行われたであろうと推測出来る内容はありました。

明治44年の業務功程において、「純系淘汰配布品種」が記載されており、その中には『雄町』『雄町甲』『雄町乙』の3種類の名称があります。
岡山県内から収集した『雄町系統品種群』の中から、より優秀なものを選抜し、『雄町』『雄町甲』『雄町乙』と区別していたことがわかります。

以上より、明治最終年の段階で岡山県では『雄町』が原種指定されていました。
そして配布されていた品種は『雄町』『雄町甲』『雄町乙』の3品種であったと思われます。



4.【実際辿ってみよう】大正時代の雄町…の前に 岡山県の考え方

さて、先ほどの明治時代の記述で、不思議に思う方もいるのではないでしょうか。

『雄町』『雄町甲』『雄町乙』の3品種が配布されているのに、なぜ原種指定の品種名は『雄町』たった1つなのか?

ちなみに先にネタバレですが岡山県では明治以降においても同様に、一般向けには品種が変わろうとも(増えようとも)ずっと『雄町』の名称で普及させています。

滋賀県でも兵庫県でも、『渡船』から選抜した『滋賀渡船2号』、『山田穂』から選抜した『新山田穂1号』をそれぞれ『滋賀渡船2号』、『新山田穂1号』という別の名称で原種に指定、普及に移しています。
『渡船』のまま、『山田穂』のままといったように、同じ名称のまま原種指定や普及を行ったりはしていませんでした。(『新山田穂1号』は『山田穂』と同じ「山田穂」として普及していた、とか謎主張している酒蔵もありますが根拠は何もないので…お察し)
ですが岡山県では純系淘汰で育成した品種を原種圃に設置しても、原種指定品種名を変えることはしていません。

このように原種指定名を統一する、というのは明確な岡山県の方針によるものだったようです。
少し時代は進みますが、大正6年発行の「臨時報告. 第20報 (米麦品種改良方法概略並に原種配付方法):岡山県農事試験場」に記載がありました。
以下原文ままですが、難解漢字だけ【】で現代漢字や読みを記述しています。

第七.縣の原種とは如何なるものか
(前略)夫れで農事試驗場に於て品種試驗の結果比較的優良と認めるもので尚縣の事情から鑑みて以上の九品種を先づ本縣の奨励品種と定め其種子の改良増殖を爲し之を原種として普く配布して稲作の進歩を計らんとして居る(中略)
縣の原種なるものは斯の如きものなれば同一品種名のものでも従来のものとは優つてをるのである縣の奨励品種なるものは一定不變【変】のものと云ふ譯【訳】ではなくて時勢に鑑みて其改廢【廃】を爲【為】すは寧【むしろ】當【当】然のことで之は原種審査會に於て審議の結果決定するのである

以下、素人解釈ですが
岡山県では「品種」というよりは「品種群」として奨励品種指定を扱っているようです。
最後の方に「県の奨励品種は一定不変のものというわけではない」と明記されています。
これは原種指定した当初の名称の品種(系統)を保存していく、という考えではなく、優秀な純系淘汰後代が育成されれば、同じ品種名のまま(品種群扱いで)入れ替えるという思想の元で運用されていた事が窺えます。

『雄町』の純系淘汰、仮に『雄町1号』が育成されたとして、原種審査会で認可されれば、それが従来の原種に代わって一般には『雄町』の名称で変わらず配布されていたのでしょう。(しかし実態は『雄町1号』)

純系淘汰育成品種を「新しい品種」として扱っていた滋賀県や兵庫県と違い、岡山県ではあくまでも「雄町(系品種群の一部)」という取扱いであったということですね。

実際、前述したように明治期において試験時には3品種が記載されていても、原種圃には『雄町』としか記載がありません。
これは大正期において純系淘汰後代が育成されても、原種圃における名称はずっと『雄町』で変わりません。
これ自体が悪いことというわけではないのですが、外部から、そして過去の記録として見るに当たって、岡山県がどの品種を『雄町』として扱っていたかが非常に不明瞭になってしまっています。
不明瞭とは言え、比較試験する際に区別されていた個別の名称、品種名は当然存在します。
何はともあれ

岡山県の原種(奨励品種)指定の名称は、どんなに品種が変わっても『雄町』で変わらない。

これが原則でした。


5.【実際辿ってみよう】大正時代の雄町系品種群(他県)

話は戻って大正時代。
純系選抜試験が各地で盛んに行われ、『雄町』の純系淘汰後代品種も多数育成されます。
そして岡山県のように純系淘汰後代を育成しながら原種指定名を変えないというようなことをしている県は…それほど多くはないです。
多くはないですが(全道府県をくまなく調べたわけではないのですが)岡山県のような運用をしている県も当然あります。(山形県や三重県)

「大正十五年一月 道府縣ニ於ケル米麥品種改良事業成績概要」(農林省農務局)に掲載されている品種を拾ってみました。
各県で育成され、原種指定されている雄町系品種群(人為的に明らかな交雑育種がされていないもの、であって、交雑品種でない保証はない)は以下のとおりです。

愛知県『愛知雄町1号』
京都府『雄町1号』
奈良県『雄町(純系淘汰)』『奈良雄町1号』
島根県『雄町1号』
広島『雄町8号』
山口県『雄町1号』『雄町2号』『雄町3号』
徳島『雄町(純系淘汰)』
香川『雄町1221号』
愛媛県『伊豫雄町1号』
福岡『改良雄町』
佐賀『雄町(広島県在来?)』
長崎県『改良雄町1号(雄町1号)』『改良雄町3号(長崎中生1号)』
熊本県『1号雄町』
大分『雄町46号』
宮崎『雄町第3号』
鹿児島『鹿児島雄町1号』
(ネットでは島根県に『雄町1号』と『雄町2号』があったと記述している方もいるのですが…島根県の業務功程を調べた限り『1号』しかいませんでした。)

同じ品種名『雄町1号』が大量にありますが、それぞれの府県で選抜・命名したものなので『亀の尾』の時(【参考記事】『亀の尾』とその純系淘汰品種たち)と同じく同名異種になります。
また、『改良雄町』の名称も各所に見られますが、これは現代の『改良雄町』とは同名異種で、全くの別ものです。
「各地で地域に適応した『雄町』が栽培されている」と表現するとしたら、まさにこのような状態のことを言うのでしょう。(”地域に適応した”わけではないのでしょうけども)

岡山県に目を移すと、大正14年(1925年)の時点で『雄町』について6,632.5haの作付け面積が有りました。
さて純系淘汰育成が盛んなこの時代、この岡山県の『雄町』の正体はいったい何でしょうか?


6.【実際辿ってみよう】大正時代の岡山県における『雄町』選抜育種経過

岡山県立農事試験場が発行していた業務功程を元に、大正期における『雄町』に対する純系淘汰育種経過を追ってみましょう。

【第1次選抜】
岡山県で『雄町』への純系淘汰法による育種が開始されたのは大正3年(1914年)が最初です。
そして翌大正4年(1915年)にも同じく第二段の『雄町』選抜が開始されます。
さらに大正5年(1916年)にも同様に着手し、この大正3~5年度の3年間に選抜を開始した系統が通称「第1次選抜」として試験に供試されていきます。

大正3年着手の第一弾は、初年度「甲」1,200系統と「乙」980系統の2種類が供試されていたようです。
詳細は不明ですが明治期に原種配布していた『雄町甲』『雄町乙』と何か関係があるのかもしれません。(原種圃の2品種から選抜を図った…かも)

各系統共に選抜が進められ、大正6年度(1917年度)には大正3年着手系統7系統、大正4年着手系統7系統、大正5年着手系統20系統まで絞られます。
大正7年(1918年)、詳細は不明ですが生産力比較試験にこの第1次選抜と思われる10系統が供試されています。
そして大正8年(1919年)生産力比較試験に10系統、地方委託試験に10系統が供試され、「既往の成績に鑑み本年度選抜し原種に決定せる系統」として『雄町甲48号』が記載されています。
翌大正9年(1920年)、地方委託試験に10系統が供試されていますが、特に新しく原種に指定した等の記述はありません。
同年『雄町甲48号』が改正番号『雄町2号』と改名され、「原種として配布せる系統」と記載されています。

このように第1次選抜では『雄町2号』が育成され、原種に指定されています。

【第2次選抜】
第1次選抜『雄町2号(雄町甲48号)』の育成完了より少し遡って、大正7年(1918年)。
品種改良試験『雄町』第2次として、各地の普通農家から収集した『雄町』種子を1本植えし、内300株を掘り起こしてさらに詳細な調査を行い、150株以上を選抜します。
大正8年(1919年)は形態比較試験(144系統供試)、大正9年(1920年)は生産力比較試験(43系統供試)、大正10年(1921年)も同じく生産力比較試験を実施し、供試28系統から10系統を選抜しています。
生産力比較試験3年目となる大正11年(1922年)、供試9系統から2系統を選抜したとの記載があり、第2次選抜の純系淘汰育種に関しては以後記載されていません。
この2次選抜品種系統を原種圃に配布した、等の記載もありません。

ただ、2系統が選抜された翌年に当たる大正12年(1923年)に、品種系統比較試験に急に『雄町4号』と『雄町288号』が登場します。
これらは「本場選出」と記載され、岡山農試選出の品種系統であるとされていることから、これらが第2次選抜で最終的に残された2品種であると思われます。
“288号”と大分大きな数字ですが、第2次選抜最初の仮選抜時に「300株を掘り起こし」とあり、以降200を超えるような系統数は試験に供試されていないので、おそらく初期の仮選抜時に1号~300号の調査番号が付与されたものと推測できます。

このように第2次選抜では『雄町4号』、『雄町288号』が育成されました。

【第3次選抜】
第2次選抜『雄町4号』『雄町288号』の育成完了から、これもまた少し遡って大正11年(1922年)。
前年の大正10年度業務行程には何も記載がないのですが、ここで『雄町』について「形態比較試験(淘汰第2年目)」が記載されています。

「前年(大正10年)に予備的に実施したものであったが、優秀であったため本年(大正11年)より本試験開始」との記述があり、このせいで大正10年の業務功程には記載されていないようですが、第3次選抜は大正10年に開始されたということで間違いは無いです。
ただ、そのため選抜元の在来『雄町』の収集範囲は不明です。

形態比較試験では供試150系統から50系統を選抜、翌大正12年(1923年)から生産力比較試験を実施。
大正12年供試18系統から選抜12系統、大正13年(1924年)供試12系統全て残存、大正14年(1925年)供試12系統から5系統選抜、そして最終年となる大正15年(1926年)は供試5系統から2系統を選抜しました。
そしてこの記述を最後に、以降記述がないのは第2次と同様です。
原種指定に関しても言及はありません。

ひとまず、第3次選抜では品種名は不明なものの、第2次選抜と同様に2品種が選抜されました。


【第1次】~【第3次】において、雄町系品種5品種が育成されました。
そして明確に原種指定が記載されているのは第1次の『雄町2号』だけです。



7.【実際辿ってみよう】大正期『雄町』について補足

◇「大正十五年一月 道府縣ニ於ケル米麥品種改良事業成績概要」
農林省農務局 発行

ここでは大正14年(1925年)時点での岡山県原種(奨励品種)『雄町』について記載があり、原種指定についても言及されています。

「(前略)大正三年純系淘汰に着手し同七年結了し同八年原種圃に増殖せるもの及大正七年第二次純系淘汰に着手し同十一年結了し同十二年原種圃に増殖せるものを現に配布に供しつつあり 時勢の推移に伴い大正十年第三次純系淘汰に着手し目下試験継続中に属す 奨励品種に決定せしは明治四十一年なり」

概ね業務功程の内容と齟齬はなく、第1次選抜の育成完了(結了)年だけ1年早いですが、『雄町2号(雄町甲48号)』が大正3年選抜開始組だとすると、他より少し早い大正7年には選抜を完了していても不思議ではありません。
ここから読み取れるのは大正14年の時点で第1次選抜・第2次選抜の『雄町』、つまり『雄町2号』『雄町4号』『雄町288号』の3品種が原種として配布されていたであろうということです。
第3次選抜は記載のとおり、この時点ではまだ試験中の段階ですが、選抜された2品種が同様の扱いを受けたと仮定すると、昭和2年からは『雄町』には5つの品種が用いられていた可能性があります。


8.【実際辿ってみよう】昭和期における岡山県『雄町』

さて、以下は資料原本を所持していないので岡山県農林水産総合センターで調べていただいた内容になります。
大正時代に第1次選抜『雄町2号』、第2次選抜『雄町4号』『雄町288号』の3品種に加え、第3次選抜で品種名不詳の2品種が育成されたことは確認出来ました。
そしてそれら5品種が原種に用いられていたであろう事も推測されます。
それでもまだ昭和初期。
平成・令和の時代はまだまだ先ですね。

岡山県の育種に話を戻します。
純系淘汰法による育種は基本的に大正時代が最盛期で、特に各県では重要となる主力品種を先に純系淘汰元に選ぶので、15年もすればあらかた優秀な系統の選抜は完了してしまいます。
その為、昭和になる頃には純系淘汰による育成は全国的にもめっきり減っています。
岡山県における『雄町』選抜もその例に漏れず、大正15年/昭和元年に選抜を完了した第3次選抜を以て、以後『雄町』に対する純系淘汰による選抜の記述はないそうです。

そして『雄町』原種の情報も記載されていないまま時代は進みますが、昭和5年の「品種選抜試験」に第1次選抜の『雄町2号』、第2次選抜の『雄町4号』『雄町288号』、それに『雄町92号』と『雄町98号』の新たな2品種が登場します。
大正時代の記録と合わせて、これらが第3次選抜で最終的に残された2系統ではないかと推測され、ここでようやく岡山県育成の『雄町』5系統の品種名が判明したことになります。

この供試されている品種は、翌昭和6年の段階で早々に『雄町2号』『雄町92号』の2品種にまで減っています。
そして経年品種選抜試験が実施されますが、ついに昭和12年、供試されている品種は『雄町2号』のみとなり、以後、雄町系品種の名称が記載されることはなくなりました。

大正期からここまでの経過をまとめると以下の図のとおりになります。


明確に原種に指定した、奨励品種として残した、といった記載は無いものの、大正6年発行の「臨時報告. 第20報 (米麦品種改良方法概略並に原種配付方法):岡山県農事試験場」に記載あったとおり

縣の奨励品種なるものは一定不變(変)のものと云ふ譯(訳)ではなくて時勢に鑑みて其改廢(廃)を爲(為)すは寧(むしろ)當(当)然のこと

という言葉通りに受け止めれば、品種選抜試験に最後まで残っていた『雄町2号』が、最も優秀であるとして最終的に岡山県の原種『雄町』となったと推定するのが自然ではないでしょうか。
とすると「岡山県が原種管理している品種」は、第1次選抜で(大正7年育成完了)大正8年原種決定、大正9年改名の『雄町2号』ということになります。

前述した最も一般的な「現代の『雄町』は2次選抜(大正11年育種完了)である」や「3次選抜が現代の『雄町』である」としている内容とは異なります。
これについては、上記の何れの記述もあくまでも”大正年における『雄町』についての記述”のみが参照され、後年昭和期の試験の内容を反映していない(調査不足な)のではないでしょうか。
実際に昭和5年から昭和12年まで「品種選抜試験」が行われ、大正期選抜試験雄町系統が全て試験に供試され、最終的に『雄町2号』が残ったという記録は確かなものです。
これを考慮すれば、前述の「現代の『雄町』は大正7年育成第1次選抜の『雄町2号』」という推測の確度は高いものと言えるのではないでしょうか。


9.大正~昭和期『雄町』まとめ【管理人の仮定】

(以下管理人の推定ですが断定調)

明治期に『雄町』『雄町甲』『雄町乙』を『雄町』として原種指定していたように、大正期における『雄町』も複数品種が指定されていた。

大正時代に入って、岡山県農事試験場では本格的に純系淘汰による品種育成に取りかかり、『雄町』については3次に渡る育種が実施された。
以下のように品種は交代を繰り返すが、岡山県の公表する原種名はあくまでも「雄町」で変わっていない。

大正8年、第1次選抜の『雄町甲48号』がまず従来の『雄町(甲・乙)』らに変わって原種圃に配布され、翌大正9年『雄町2号』に改名された。
大正12年、次の第2次選抜指定品種育成完了が完了し、『雄町2号』に加えて『雄町4号』と『雄町288号』が原種として設定される。
さらに大正15年、予備的に行っていた第3次選抜からも優良系統を見いだすことが出来、育成を完了した『雄町92号』『雄町98号』をさらに追加する形で原種に設定、純系淘汰による育種はこれで一応の完了を見る。

こうして岡山県内では『雄町2号』『同4号』『同288号』『同92号』『同98号』が『雄町』として原種配布される。
その後、昭和5年になって雄町系品種5品種全ての品種比較試験が開始される。
純系淘汰品種が増えすぎたせいで系統保存・奨励普及する品種を絞る要に迫られたか(滋賀県で実例有り)、もしくはただ単に『雄町』選抜全品種を再評価してみようということになったか、理由は定かではない。
この試験の結果、昭和6年時点で試験に供試されている(優秀と評価された)品種は『雄町2号』と『雄町92号』の2品種となり、最終的に昭和12年の時点で『雄町2号』が成績最優良として唯一残された。
複数の品種をもって奨励品種『雄町』とする体系が廃され、『雄町2号』が『雄町』原種として扱われるようになり、平成・令和の時代まで栽培が続いている。

『雄町4号』『雄町288号』『雄町92号』『雄町98号』が品種選抜試験を最後に廃棄され、『雄町』原種が『雄町2号』に一本化されたためか、岡山県農試における原種管理もいつしか本来の品種名は忘れ去られ、”雄町”としてのみ名前が残ることとなった。

昭和期のこの品種比較試験には原種交代の明確な記述がないため、大正期の記録を元にして「大正11年育成が現在の雄町である」という誤った情報が現代まで伝わるようになっているものと思われる。

(管理人の推定終わり)


10.最初の話題に戻りますが、事実として見れば


・幻の酒米!→もう500ha以上生産されています(比喩なんでしょうけど
・日本最古の酒米!→大正7年より前に育成されたもっと古い品種はいます(比喩なんでしょうけど
・160年前に発見され、ずっと栽培が続けられている酒米!→育成は1919年、100年前ですね(比喩なんでしょうけど
・人の手による品種改良が加えられておらず、混血のない日本古来の原生種!→思いっきり人の手が加えられたモノが現在栽培されていますし、その前から混血していないわけがないです(比喩なんでしょうけど


「160年前に発見された日本最古の幻の酒米」
…のようなセンセーショナルな宣伝は多数目にする『雄町』ですが、その歴史を辿ってみるとこのような変遷を垣間見ることが出来ました。

現在岡山県農林水産総合センターで管理している『雄町』は、あくまでも『雄町』という扱いでしかありません。
ただ「その正体は雄町甲48号『雄町2号』である」、この説は「『短稈渡船』=『滋賀渡船2号』」よりは信頼度がある、確かなものだと言っても良いのではないでしょうか。


11.【結論】現代で栽培されている『雄町』とは


系統名:雄町甲48号
品種名:『雄町2号』
来 歴:大正3年育成開始、(大正7年育種完了)大正8年原種指定、大正9年改名
原種圃:大正8年原種圃に設定、以後現代まで続く

以降このブログ内ではこのように扱いたいと思います。(岡山県が公式に認めるかどうかはわかりません)
違うのではないか?といった情報提供お待ちしております。(ただしその際、どんなに有名だろうと現代の書籍でどう書かれていようが意味は無いので、大正~明治初期当時の資料のご呈示をお願いします。)


最後に、改めて調査・ご対応いただいた岡山県農林水産総合センター農業研究所様に感謝申しあげます。


参考文献

〇臨時報告. 第20報 (米麦品種改良方法概略並に原種配付方法):岡山県農事試験場
〇業務功程 明治44年~大正14年、昭和元年~昭和13年:岡山県立農事試験場
〇酒米の岡山(岡山県酒造好適米格差金制度10周年記念誌)昭和37年:岡山県酒造好適米格差金制度10周年記念会
〇岡山県における水稲品種の変遷 平成12年3月:岡山県農業共済組合連合会

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古い品種の間違いあれこれ










5 件のコメント:

  1. おそらく、大正年代の岡山研にとっては、今で言う純系分離育種のようなことをやっていても、それはあくまで「奨励品種に指定した在来品種『雄町』の原種管理の一環」という考え方だったんでしょうね。その思想が継承されていないから、後続の職員にも現代人の私たちにも容易に読み解けない記録になっている……。
    個人的には「改良雄町」に代表される親戚達の系譜がどうなっているのかも面白そうに思いました(もっとこじれて双だが)

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    1. 県内すべての『雄町』集団が原種…という考えでしょうか
      それにしても結局は昭和期に入ってすぐ『2号』まで絞ったようすですし
      やはり品種違いの配布地域からクレームがあったのかもしれませんよね
      「隣村の雄町よりこっちの村の雄町は収量がとれない!本当に同じ種籾か?」とか…
      「雄町」と名称を統一しているのに中身は5種、とくれば一般普及の段階でも比べられたときに違いが見えたのかもしれませんよね

      交配系追うのはかなーり厳しいですね…うんむ…
      業務功程なんて「AとBを交配した」しか書いてませんから、どこ由来の品種なのか皆目わからないんですよ…
      しかも品種名の扱いが超ぞんざいだったこの時代です
      『比婆雄町』を平気で『広島雄町』とか『雄町(山陽)』とか『雄町』とか(同じ試験場の同じ年度でも)バラバラに表記していたことは間違いないと(証拠はないですが)言えます
      どうやって追えというのだ(絶望)と言う状況です、現在、はい

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  2. 誤字
    岡山研→岡山県
    こじれて双だが→拗れてそうだが

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  3. 原種管理と純系分離は確かに作業として近い(本来は均一であるべき集団から異株を排除する、あるいは均一じゃない集団を均一化する)ので、あまり変わらないって発想もありだなーと思ったり(現代では明確に区別はされている)

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    1. 「本来は均一であるべき集団」…そうその品種としての大前提が(私の)理想とかけ離れていて…ワタクシはただいま絶賛混乱中です

      「『雄町』は『白玉』と形態が非常に近縁だが『白玉』には芒がない点が明確に違う」ってのが大正五年の愛知県の説明で、籾重・穂数・草丈・出穂・成熟期は両者確かに似ているんですよ

      それはそれでいいんですが

      「芒がない点が違う」だけで『雄町』と『白玉』は別品種だと区別しているのに
      純系淘汰となると平気で「芒がない」「熟期が違う」「草型が違う」という『雄町系品種』が出てくるのがよくよく考えるとおかしくないですかね…なんでそんなのを『雄町』として集めてくるの…?芒がなかったら『白玉』じゃないの…?
      それらしく品種の区別書いてますが、結局在来に対しては「何という名前で呼ばれているか」位でしか区別していなかったんじゃないかな…と

      という感じで
      そもそもの当時の「同じ品種」「違う品種」の定義
      その扱いに甚だ疑問を抱いている最中でございました
      正直絶賛資料不足状態なのでほぼ妄言というか調査が進まないことに対する愚痴でございます


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