2020年4月19日日曜日

山形の主力品種【四コマ漫画】


山形の主力品種と言えば?

ということで





今や(令和2年)山形県の三大品種と言えば

『つや姫』 『雪若丸』 『はえぬき』

これで文句なく決まりです。

時代をさかのぼれば

昭和後期、自主流通米が出始めた頃には、山形県庄内地方では『ササニシキ』、山形県内陸部では『キヨニシキ』が主力となっていました。
特に庄内産『ササニシキ』は新潟、宮城と並んで自主流通米の三大産地(良食味)と数えられるほどでした。
しかし、ご存じのように『ササニシキ』は良食味ながら耐冷性が低いことから、内陸主力の『キヨニシキ』も食味があまり優れておらず、耐冷性も母親の『ササニシキ』譲りで低く、両者ともに時代のニーズに合わなくなりました。

特に平成元年を挟んで冷害が多発し、耐冷性の優れた品種を望む声が多かったようです。

そこで平成の時代になって山形が送り出した「YAMAGATA’S FINEST」ライス、『はえぬき』『どまんなか』の2品種がデビューします。
平野部を『はえぬき』が、中山間地を『どまんなか』が担うはずでした、結局は耐冷性と耐病性により優れた『はえぬき』1品種が山形県内全域を席巻。
隙間を埋める形でこれも耐冷性に優れている『コシヒカリ』および『ひとめぼれ』が一定の作付面積を記録しています。

日本穀物検定協会の食味ランキングで22年連続で特Aを獲得するほどの実力を見せつけ、山形の基幹品種となった『はえぬき』ですが、売値の面では安値の業務用米がほとんど…
「米どころ山形」として栽培特性に優れ、食味も優秀な品種が手に入っても、全国的に有名になることは出来ず…

そんな山形米の転機となったのが平成20年に生まれた『つや姫』でした。

その食味の優秀性はさることながら、なにより全国に先駆けて「ブランド米」を推し進めた山形県の取り組みは実を結び、魚沼産コシヒカリに次ぐ地位にまで上り詰めました。
順調に作付を増やす『つや姫』と相対して、全体的な作付面積の減少も相まってか山形県内『コシヒカリ』の作付はかなり減っていきます。
作付面積としては1位『はえぬき』、2位『つや姫』、3位『ひとめぼれ』となりました。

こういうのが出るくらいですからね。
左から『ひとめぼれ』『つや姫』『はえぬき』さん

『つや姫』で成功した山形県は、高価格帯と低価格帯の中間を担うべき新品種『雪若丸』を平成30年にデビューさせ、山形県の稲作を担う三本柱がここに揃い踏みしました。
『はえぬき』の代替品種が出るような話はありますが、耐冷性に優れ、多肥栽培にも耐えうるこの品種にわざわざ変える必要性も薄いような気もします。



本来であれば山形県には二枚看板の『はえぬき』と『どまんなか』があるはずでした…が…
まぁ察してください

言うほど『はえぬき』だって有名って訳じゃないですからね。




2020年4月14日火曜日

【粳米・酒米】~神力~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

地方系統名
 『ー』
品種名
 『神力(器量好・器量能)』系品種群
 ※異名多数
育成年
 『明治10年(西暦1877年) 兵庫県 丸尾重次郎氏選抜』
交配組合せ
 『程吉より選抜』(文献により『程良』『程好』の表記あり)
主要生産地
 『ー』※福井県、兵庫県、熊本県で各純系淘汰後代独自系統が栽培中
分類
 『粳米』※純系淘汰後代は酒造好適米(産地品種銘柄に依る)に分類


神力「神の思し召し、か…それもよかろうかい」




どんな娘?

米っ娘たちのとりまとめ役、太夫元六米の一角。

明治の三大品種の一角。
理知的な発言と見た目から丁寧な仕事ぶり…が想像されますが、実は結構雑で物事をこなす際にも粗さが目立ち、太夫元六米の仲間内からも苦言を呈されることがあります。(でも昔だったらそれなりに丁寧って評価されたのに…【本人談】)
ただ、そこそこの出来で大量に仕事をこなすのは得意で、質より量が求められる時代には大いに人々の助けになったのは確かです。

生まれた時こそ「誰よりもよく食べ、よく働く」の代名詞だった彼女ですが、今時の米っ娘にはどちらも遠く及ばない現状についても、嘆くのではなくその変化を愉しんでおり、事象の理解・分析には細やかなところがあるようです。

ちなみに、上州が後ろにくっついていることが多く、なにやら気が合うようで一番仲のいい組み合わせです。

一人称は「私たち」。
他の太夫元六米(や「在来」と呼ばれる品種)は性質や熟期も幅広い(固定が不十分な)ことが多いですが、愛国と並んで神力も純系淘汰で正式に固定した子品種が作出される以前の段階で早生・中生・晩生が存在していたせいか、時折性格のブレが大きく出ます。


概要

主に大正期~昭和初期に言われたという西の『旭』に東の『亀の尾』は有名どころですが
それ以前の明治~大正の時代に西の『神力』、東の『愛国』と称され、『亀の尾』も加えた三大品種に数えられたのがこの『神力』(系品種群)です。
前者は良食味品種として東西の双璧に数えられましたが、後者は多収品種と言う意味での東西の双璧…と言えるでしょうか。


『神力』の名は、「稲姿と籾色が甚だ優美であり、その多収性に神の加護を感じられた」ことから、と言う何とも神秘的なお米ですね。
『花嫁美人』と言う異名も、その見た目(稲姿)の美しさ故だそうです。

時代は明治初期。
明治6年(1873年)の地租改正により、農民は豊作・凶作にかかわらず一定の税金を納めなくてはならなくなり、生活はより一層苦しいものとなり、諸県では一揆が起こるほどでした。
そんな中ですから、税金を納めるためにより多くのお米がとれること、そして仮に天候の悪い年にも多くのお米がとれることが強く求められました。
つまりより多収で耐病・耐冷性に優れた新品種が求められていました。
まさにその時代に生まれた『神力』は、従来品種の1.25倍という並外れた収量を示し、なおかつ当時としては品質も良いと評価され、神の授かりものとさえ言われました。
大正期に普及した『旭(朝日)』に収量・米の質・耐倒伏性・耐病性すべて劣るとされ、姿を消しましたが、間違いなく明治期の西日本の米農家を支えた素晴らしい品種です。

明治初期は大豆粕肥料が普及し始めていたころでしたが、これに対する耐性が高いことからも、食糧増産に一役を買ったようです。
しかし大正8年(1919年)頃から硫安(硫酸アンモニウム)のような無機質肥料の使用が増えるとともに、いもち病が増え始めたというので、無機質肥料に対する耐性はあまり強くなかったことがうかがえます。

大正8年(1919年)が最盛期で全国作付面積の約19%を占めましたが、以降実質的な後継品種『旭』への切り替えが進み、昭和20年代半ばに姿を消したそうです。

大正時代の『神力』は、普及していた県が多かったせいもあってか、かなりの種類の純系淘汰品種が奨励品種になっており、正直収拾がつきません…
在来で既に『早生神力』『中生神力』『晩生神力』が確認でき、それぞれの在来から選抜された純系淘汰種(『早生神力◯号』等)が育成されたようです。
品種名に地名を載せているところ(滋賀県や奈良県)では、名前が長すぎるせいか
【奈良県が、『在来晩生神力』から選抜した品種の1号】を『奈良晩神1号』
のように、「神」だけを用いた品種名もみられます。
そんな『神力』の名を冠した品種の中でも、愛知県の『愛知栄神力』(『神力』×『三河錦』交雑種)や高知県の『土佐神力』(『愛国』×『神力』交雑種)、鹿児島県の『三井神力』(『愛国』×『神力』?交雑種)など、純系淘汰ではない純粋な子品種も存在していたようです。
ちなみに、『愛国』の場合は『改良愛国』が交雑による子品種でしたが、大正時代に確認できた範囲では『改良神力』はすべて純系淘汰による育成品種となっていて、やはり昔の品種を調べるにあたって名前だけでは容易に判別できないようです。

さらに『早生神力』などについても、基本的に現代で『神力系品種群』の扱いを受けている事が多いですが、明治~昭和初期当時からして「神力の一種として良いものか」とされていることが多いのです。
本来であれば区別されるべき別品種で、遺伝的に近縁であるかどうかは別として、慣例・慣習によって『神力系品種群』が構成されていたことが窺えます。


広島県における『伊勢錦』

『伊勢錦』と言えば三重県生まれの在来種で、平成・令和現代においても純系淘汰後代の『伊勢錦722号』が栽培されていますが、明治期の広島県では『神力』系品種群の異名として『伊勢錦』が用いられていました。

広島県では明治43年に『神力』の中から特に優良と認めた「草丈がやや長く、分けつ数の多い個体」について『伊勢錦』と命名、配布していました。
大正6年に名称統一のために『神力』に戻していますが…
明治43年~大正6年の間、広島県から取り寄せた『伊勢錦』はその実『神力』(系品種群)ということですね。
もしも昔の品種を調査する場合(そんなことあるのか)はこの点注意が必要ですね。


愛知県における『早生神力』

愛知県では明治27年、知多郡八幡村の加藤石松氏が兵庫県から『力良』と呼ばれる品種を持ち帰り、抜穂しつつ数年純系淘汰を行っていました。
その純系淘汰を行ったものがさらに安城町里(安城市里町の誤記?)の富田宇吉氏の手に渡り(譲り受け)、『早生神力』と命名して普及されました。

これがさらに大正4年に愛知県農事試験場において『三河錦』と改名され、奨励品種に加えられています。
ここから順次純系淘汰による系統変更が行われ、昭和4年来『愛知三河錦4号』が奨励品種になりました。

これが酒米品種としても有名な『愛山11号』の母系統に当たることからよく紹介され、そしてよく誤解されていますが、『早生神力』は上記のように選抜者も選抜過程も、兵庫県の丸尾氏が選抜した『神力』とは全く違う品種です。
大正時代の愛知農試が『三河錦』と改名したのも、兵庫県発祥の『神力』と区別するためだと推測されます。

系譜図では単に”早生神力”や”神力”としか表記されないので勘違いされやすいですが、これが在来品種を語る上で注意しなくてはいけない点です。
同じ名前の品種などいくらでもあるので、単に品種名だけで判断することはできないんですよね。


北海道における『神力1号』『神力糯2号』『神力3号』

(全くリサーチできていないので全体は把握出来ていませんが)数多くの県で「神力〇号」という純系淘汰で育成された神力系品種は数多く存在し、普及に移されました。
当然それは自然雑種や別品種など含む雑多な品種群からの選抜…であるものの、一応「在来種『神力』に類する品種」、と言うことは出来るでしょう。
ただまったく完全に関わりの無い”神力”も(おそらくこれ以外にもたくさんあるのでしょうが)

北海道夕張郡長沼村(昭和20年当時)の篠島淸作氏が育成した『神力1号』『神力糯2号』『神力3号』らがそれです。(この後ももしかして?)
一見すると在来種『神力』からの純系淘汰のように思えるかもしれませんが全く違いました。

※一応品種名は原表記ままで
『神力一號』……『上育B十八号』(後の『栄光』か?)の純系淘汰
『神力糯二號』…『改良糯一號』×『陸羽一三二號』交配後代
『神力三號』……『水稲農林二十號』の純系淘汰


『神力1号』『神力糯2号』の育成完了年は不明ですが、『神力1号』の選抜元『上育B18号』の配布開始年がイネ品種データベース通り1939年(昭和14年)だとすると、1号の育種完了年は昭和16~19年の間(純系淘汰に3年程度かかると勘案)かな?と言う推測は出来ますね。
『神力糯2号』は同時期かそのあとでしょう。
『神力3号』は昭和20年度に「本年度発表品種」とされていますので、昭和20年(1945年)育成完了…でいいのかな?

この篠島淸作氏なる方が如何なる方か詳細はわかっていない管理人ですが、大正8年(1919年)から個人で育種を続けている方のようで、記録からも全国各地の農事試験場から助言や資料の提供を受けた上で、公的試験場に劣らない数の交配を行っています。
この方は試験系統に『神系』とつけるなど、なにかしら”神”に強い思い入れがあるように見受けられ、以下の一文が「水稲新品種育成のあらまし」に記載されていました。

自分という微少なるものゝ力で出来ることは一つもないのだ。如何なる小さな仕事でもみな天地を貫く偉いなるものゝ力による、此の偉大なる力の主を神と云ひ佛といふのだ。右にせず左せず只一筋に神の命ずるまゝに使命を果さう。如何に採算がとれなくても、こと、如何に小なりとも使命だもの、毅然として神業を翼賛しやう。

有名どころの在来種『神力』とはまた違った意味が込められていそうな品種ですね。

『コシヒカリ』との関連性

『コシヒカリ』につながる系譜としては、『コシヒカリ』の母親『農林22号』のさらに父親『農林6号』まで遡ります。

この『コシヒカリ』の母方の祖父に当たる『農林6号』の父親、『コシヒカリ』から見て曾祖父が『撰一』となっています。
この『撰一』は『器量好(神力)』からの選抜種であり、このように『神力』の血が現代に繋がっているというわけです。


現代の『神力』 現代における純系淘汰種

栽培が途絶えた『神力』も平成の時代に栽培が復活していますが、これは保存されている複数系統の『神力系品種群』の中から優良なものを選抜したもの…
と言うより、もう完全にこれは神力系統の新品種を作り出した、と言っても過言ではないでしょう。

〇兵庫県
『神力』復活としては熊本県の方が先のようですが
兵庫県では平成6年(1994年)に姫路市の本田商店が「郷土が生んだ米の原種で酒を造りたい」と要望したのが始まりだったそうです。

酒米試験地が京都大学農学部から種子を取り寄せ、平成8年(1996年)に中島集落での栽培を始めました。
柳津北営農組合と普及センター、JAの協力の下で、ジーンバンクから取り寄せたものも加えた8系統で比較試験を行い、酒造適性に優れた1系統を選抜。
その1系統を平成12年時点で3ha作付けしていたそうです。

後述する熊本県と同じように、兵庫県も独自の選抜を行った現代版『神力』(純系淘汰)を栽培している模様です。

〇熊本県
熊本県の美少年酒造が復活を志したようで、JA熊本経済連も全面的な協力を行ったようです。

平成3~4年(1991~1992年)の2年間、熊本県内で『神力』の種子を探すも見つからず。
平成5年(1993年)になり、佐賀県内の農家が保存していた『神力』を見つけましたが、栽培してみたものの収量や品質が良くなく断念。(これって佐賀県の在来『神力』(別種)では?)

翌平成6年(1994年)、茨城県にあるジーンバンクで保存されている『神力系統品種群』39系統の中から7系統の種子を譲り受け、これを熊本県農業試験センター(当時)矢部試験地で系統選抜。
翌平成7年(1995年)には矢部町で現地試験し、良質種子を選抜。
平成8年(1996年)は各地での試験栽培の結果菊池地区を主力生産地に決定し、なおかつ良質の籾を選抜。

このようにして復活したこの品種は、まごうことなく熊本県が作り上げた酒米『神力』と呼ぶにふさわしいでしょう。
(無論、初代『神力』から見れば純系淘汰による子品種にはなるかと思いますが)


他福井県はよくわからんです・・・
『福井県産神力』について記述してる酒蔵の情報はあるにはあるんですが、正直信用できません。
公的機関が記述した資料があるといいんですが・・・


育種経過

明治10年(1877年)に兵庫県揖西郡(現:揖保郡)中島村の丸尾重次郎氏が、有芒種である在来『程吉』の中に、無芒で籾の大きい3本の穂を発見し、選抜。
翌明治11年(1878年)に試験栽培し、2斗4升6合(約307kg)の籾を得ると同時に、当初は『器量好』(きりょうよし)と名付けました。
※文献により『器量能』の表記も有り

中島村では発見から3年目の明治12年(1879年)に本格的な栽培に入り、結果既存の品種よりも25%も増収となった上、米質もよく(当時基準)大粒と言う素晴らしい結果に、近隣の農家も種籾を譲り受けて栽培が拡大していったそうです。

明治15年(1882年)には揖西・揖東の平坦部のほとんどに普及し、明治19年(1886年)に余部村(現:姫路市)の岩村善六氏などと協議し『神力』と名を改めました。
岩村善六氏はこの『神力』の多収性や沿革を中央の農商工広報に載せて全国に紹介し、この後全国に普及していくことになります。

明治20年代の時点で大阪、京都、兵庫、徳島、香川、九州一円に広がりました。
明治30年代前半には神奈川県以西にまで広がり、40年には栃木県以西まで広がったとされています。

これだけの急拡大に対応するために、種子を改良して共同採取する「水稲神力採取組合」が揖西村に結成され、相当な努力のもと、この『神力』の急拡大に対応し、種子を供給したとされています。


系譜図

『神力』系譜図


参考文献(敬称略)

◯酒米「神力」の復活:佐々木定
◯「コシヒカリ」祖先品種の栽培特性と食味:福井県農業試験場 中岡史裕ら
◯日本の在来稲とその現状ーブランド米の祖先品種と現在の状況ー:公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構
〇ひょうごの農業技術No.111~特集 酒米生産現場の取り組み~:兵庫県立中央農業技術センター
〇広島縣農事成蹟要覧(大正六年七月刊行):広島県内務部
〇水稲育種のあらまし昭和十九年度:篠島淸作
〇水稲育種のあらまし昭和二十年度:篠島淸作
○米麦品種改良増殖事業概要 並 米麦原種穂事業成績:愛知県立農事試験場

2020年4月13日月曜日

【粳米】~愛国~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

地方系統名
 『ー』
品種名
 『愛国』(系品種群)
育成年
 『明治25年(西暦1892年) 宮城県 窪田長八郎氏ら』
交配組合せ
 『身上早生より選抜』
主要生産地
 『ー』
分類
 『粳米』
愛国「僕たちが愛国さ、よろしくね」





どんな娘?

米っ娘たちのとりまとめ役、太夫元六米の一角。

明治の三大品種の一角。
出で立ちや口調からはまったく想像できないが、行動にはかなり粗野な部分が目立ち、遭遇(?)した米っ娘(若手)達が挨拶がてらに尻や頭をひっぱたかれるのは日常茶飯事。
神経もかなり図太く、驚くことを知らないと噂されるほど。
仕事ぶりに関しても、同期の神力も周囲からは「雑」と批判されることがありますが、愛国に関してはそれ以上で、かなりいい加減。
書類仕事など任そうものなら文字の判別と、書類の並び替えにかなり苦労を強いられるため、太夫元六米の中でも仲裁や見回りなどの肉体労働を割り振られているようです。

と、なにかと敬遠されるように思われる愛国ですが、旭・亀の尾と組めば互いの長所短所を補うことができるからか、見違えたような働きを見せます。
しかしやはり1人で出歩いているのに会うと、他の米っ娘(若手)達には警戒される様子。


一人称は「僕たち」。
他の太夫元六米(や「在来」と呼ばれる品種)は性質や熟期も幅広い(固定が不十分な)ことが多いですが、特に『愛国』は『神力』と並んで純系淘汰で正式に固定した子品種が作出される以前の段階で早生・中生・晩生が存在していたせいか、時折性格のブレが生じることもあります。


概要

西の『旭』に東の『亀の尾』は有名どころですが
それ以前の明治時代に西の『神力』、東の『愛国』と称され、『亀の尾』も加えた三大品種に数えられたのがこの『愛国』(系品種群)です。
前者は良食味品種として東西の双璧に数えられましたが、後者は類を見ない多収と言う意味での東西の双璧…と言えるでしょうか。

W◯kipediaでは「細かくは早生愛国、中生愛国、晩生愛国など多数の品種がある」とされていますが、厳密にはそれは後代の子品種達であり、それらを含めるのであれば他の在来品種達と同じように『愛国系品種群』と呼ぶのが正確と思われます。
本来の品種としての『愛国』は舘矢間村館山で選抜されたもの、それだけなのでしょう。、明治初期はまだ公的機関による純系淘汰、及び固定がまだ盛んでなかったため、地方ですでにこのような在来種としての分化(もしくは品種の取り違い)が進んだようです。
ただ後述しますが、最盛期に普及したのは基本的にそのさらに後代となる、正式な純系淘汰子品種達です。

生まれた時代は明治初期。
明治6年(1873年)の地租改正により、農民は豊作・凶作にかかわらず一定の税金を納めなくてはならなくなり、生活はより一層苦しいものとなり、諸県では一揆が起こるほどでした。
そんな中ですから、税金を納めるためにより多くのお米がとれること、そして仮に天候の悪い年にも多くのお米がとれることが強く求められました。
つまりより多収で耐病・耐冷性に優れた新品種が求められていました。
そんな時代、多収(少肥下でもそれなり)に加えて耐病性・耐冷性の非常に高い『愛国』は、外観や味の悪さから安値では取引されたものの、炊くと釜増えする特徴が米消費量の急増する時代に合致しており、『神力』(本来の晩生の『神力』と推測される)が作付け出来ない東日本、特に関東圏を中心に広まりました。
戦前は朝鮮や台湾にまで栽培地が広がったと言います。

『愛国』(系統品種群)は明治時代後半から昭和時代の初めまで東北、北陸、関東の各地方を中心に全国に広く普及し、特に東北では昭和元年(1926年)に最大の約8万haとなりました。
しかし『神力』(系統品種群)が大正時代にかけて『旭』と入れ替わっていったのと同じく、『愛国』の後代品種に切り替えが進んでいきます。
まずは『銀坊主』の登場によりその作付けは入れ替わり、さらにその後徐々に後継の新品種に置き換わっていき、昭和14~19年(1936~1955年)にかけて奨励品種から姿を消し、昭和28年(1953年)には完全に姿を消したと言われます。

ちなみに、大正15年時点で
宮城県では『愛国1号』や『早生愛国2号』などの早熟系、岩手県では『中稲新愛国』『晩稲新愛国』、山形県では『中生愛国』(晩稲と評価)など、熟期だけで見ても多様な品種群であったようでした。

また、農商務省農事試験場陸羽支場が純系淘汰により育成した『陸羽20号』が
新潟県では『陸羽20号』として
また岐阜県と福島県では『愛国20号』の名前で
長野県では『陸羽愛国20号』の名前で
それぞれ普及していました。

このように異名同種もあったわけですが、同じく農商務省農事試験場の畿内支場が純系淘汰で育成した無芒愛国が茨城県や石川県で奨励品種になっていたようですが、同じような純系淘汰で埼玉県が無芒愛国埼1号』を普及していました。
そして福島県では同じような名前の無芒愛国25号』と言う品種がありました…が
この福島県の『無芒愛国』は畿内支場育成の『畿内早生25号』(『穀良都』×『愛国』)という、交雑育種で生まれた完全な別物です。
〇『無芒愛国』(茨城・石川)=畿内支場(純系淘汰)育成品種
〇『無芒愛国埼1号』(埼玉)=埼玉農試(純系淘汰)育成品種
〇『無芒愛国25号』=畿内支場(交雑)育成品種『畿内早生25号』別名


同名異種と言う点ではさらに

先に述べた岩手県の『新愛国』、さらに長崎県には『改良愛国2号』が奨励品種になっていましたが、これらは在来『愛国』より純系淘汰によって育成されたことになっている※1ので、一応『愛国系品種群』と言えます。

しかし、群馬県、新潟県、石川県、和歌山県で普及していた『改良愛国』については、農商務省農事試験場畿内支場(大阪府)が『信州金子』と『愛国』の交雑育種で育成した明確な子品種『畿内早生22号(畿内早22号)』になります。
そして同じ名前の『改良愛国』ですが、山梨県については『畿内早56号』(『信州金子』×『愛国』)からの改名となっており非常にややこしいデス。※2
同じような名前ですが、後者は『愛国系品種群』とは明確に一線を画す存在となります。
この『畿内早生22号』は長野県ではその名前のまま、栃木県では『畿内千石』との品種名で普及しました。
こういった複雑で似たような品種名が多く有り(昔の品種にとってはある意味常態化していますが)非常に判別しにくく、紛らわしいですね。

※1農商務省畿内支場の記録では長崎県の『改良愛国2号』も『畿内早生22号』ということになっていると西尾敏彦氏は書いており、どちらが正しいかはわかりませんが、西尾氏の記述はところどころ怪しい気が…
※2農商務省畿内支場の記録では全て『畿内早生22号』になっていると西尾敏彦氏は書いており、どちらが正しいかはわかりませんが、西尾氏の記述は(以下略


まぁすべては謎と言う事です(ぶんなげ)


稈長は110センチ前後まで伸びるようで、昔の品種にもれずかなり背の高い品種のようです。
こういう情報は現代のジーンバンクに依りますので、当時は…これでも倒伏に強い方だったのでしょうね。


『コシヒカリ』との関連性


『愛国』の『コシヒカリ』につながる系譜としては、2系統あります。
『コシヒカリ』の母親『農林22号』のさらに母親『農林8号』、そして『コシヒカリ』の父親『農林1号』のさらに父親『陸羽132号』です。

まずは『コシヒカリ』の母方の祖母に当たる『農林8号』の母親、『コシヒカリ』から見て曾祖母が『銀坊主』となっています。
この『銀坊主』は、富山県婦負郡寒江村の石黒岩次郎氏が明治40年(1907年)2月に『愛国』を試作した際、施肥量を間違いやり過ぎてしまった、というある意味失敗から見出された品種です。
1畝(約100㎡)ほど作付けされた『愛国』はほとんどがべったりと倒れてしまいましたが、その中に茎が強く、倒伏しない明らかな変種を見つけました。
耐肥性、及び耐倒伏性に優れているこの品種が『銀坊主』と名づけられました。
『銀坊主』は出生地の富山県、そして北陸の石川県、福井県にも普及(純系淘汰後代も作出された模様)したようです。

次に『コシヒカリ』の父方の祖父に当たる『陸羽132号』の父親、『コシヒカリ』から見て曾祖父が『陸羽20号』となっています。
この『陸羽20号』は農商務省農事試験場陸羽支場が『愛国』から選抜した品種であり、福島県や岐阜県では『愛国20号』の品種名で普及していました。(長野県では『陸羽愛国20号』、新潟県では『陸羽20号』と呼び名には幅があったようです。)
在来の『愛国』よりも7~10日程度出穂期が早い(福島県:当時)ため、冷害の回避に有利とされ、さらに短稈で茎も強く、多肥栽培に耐えることが出来る米質良好な品種とされています。

このように『愛国』の血が現代に繋がっているというわけです。
『コシヒカリ』における穂ばらみ期耐冷性は長らく「極強」とされており(2015年以降の基準で「強」)、その耐冷性を生かした『ひとめぼれ』を代表とする後代品種も多く育成されましたが、この『コシヒカリ』の耐冷性の由来になったと言われているのがこの『愛国』です。
食味の点では当時から褒められていたものではありませんでしたが、現代の耐冷性の始祖として、その遺伝子は現代の稲品種にとって非常に重要なものとなりました。



育種経過


明治22年(1889年)、静岡県南伊豆郡朝日村(現在の下田市)の養蚕家、外岡由利蔵氏から宮城県舘矢間村館山(現在の丸森町舘矢間)の養蚕家、本多三學氏が無名の種籾を取り寄せたことに始まりました。
(※本多三學氏についても「本三學」の誤表記がままあるそうですが、この件に関しては直接子孫の方に確認が出来ており、「本多(夛)」が正しい表記です。)

外岡氏、本多氏両名は共に養蚕家として同業者であり、風交倶楽部の俳句仲間として親交の縁があったそうです。
ところでその種籾を受け取った本多三學氏ですが、なんと水田は所有していなかったということで、舘矢間村小田の篤農家、窪田長八郎氏に試作を依頼します。
初年の明治23年(1890年)は出穂が遅れ、採れた種子はわずかだったと言います。
ただし翌明治24年(1891年)は成熟が3日早まり、それなりの量を収穫できました。
これは明治23年の際に取れた種子がわずかだったことから、宮城県でも登熟出来る、つまり出穂期の比較的早い個体が自然に選抜されたことがうかがえます。

そして明治25年(1892年)、窪田長八郎氏に加え日下内蔵治氏、佐藤俊十郎氏、佐藤伊吉氏らが試作を行います。
この年はさらに前年と比較して成熟が3~4日、初栽培の明治23年から比べれば約1週間早まり、成績は良好とされました。
舘矢間村大字小田の日下内蔵治氏の試作したものが最も収量が多く、反収2石8斗あまり(約420kg/10a)に達しました。
坪刈り調査に訪れた伊具郡書記、森善太郎氏と、同郡米作改良教師、八尋一郎氏により、これほど素晴らしい稲が無名であることを嘆いて、『愛国』と命名したと伝わります。
※日清戦争(1894~1895年)を間近に控えた時期であったことから『愛国』としたと言われています。

取り寄せた種籾の品種については諸説あったのですが、元宮城県古川農業試験場長佐々木武彦氏の研究により、高橋安兵衛氏が選抜・育成した『身上早生』であることが判明したとされています。
宮城県立農事試験場で、初期の『愛国』と静岡県賀茂郡竹麻村で栽培中の『身上早生』を比較栽培し、両品種間にほぼ差が無い事を確認していることからも、間違いない情報と言えそうです。
※『赤出雲』由来説は、『愛国』の普及状況や証明となる根拠において整合性がないか不明瞭であることが証明されています。

食味の悪さは兎も角、多収で耐倒伏・耐病性・耐冷性に優れているという栽培性の高さを実現したこの『愛国』は、伊具郡内は無論のこと、宮城県内全域に急速に普及しました。
この元となった在来『愛国』からは、宮城県で『早生愛国』『中生愛国』が選出された…そうなんですが、どうにも宮城県の奨励品種の中には見受けられません…情報求ム
もしかしたら『愛国1号』(中生?)と『早生愛国2号』(早生?)のことかもしれませんが…

兎に角、他にも全国各地で純系淘汰の系統品種群が多く育成されることになります。
そうして東日本を中心に広がり、『愛国』系品種群は明治時代に三大品種に数えられるまでに至ります。

そして『陸羽132号』、『銀坊主』などへその血は受け継がれ、日本の水稲品種の基礎を築いていくことになります。


系譜図

『愛国』と『身上早生』は宮城県の試験でほぼ同じとはされていますが
育成の過程を見ると成熟期が1週間早くなっており、やはりこの点で別品種と呼ぶことはできると思います。
『愛国』系統図

参考文献

〇水稲「愛国」の起源を巡る真相:佐々木武彦




2020年4月4日土曜日

【粳米】~大場~【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

地方系統名
 『ー』
品種名
 『大場
育成年
 『文久元年(1861年) 石川県 西川長右衛門氏選出』
交配組合せ
 『巾着の中から選出』
主要生産地
 『ー』※後代の『森多早生』は山形県で栽培
分類
 『粳米』


大場「うん?うむ…大場だ、よろしくな」





どんな娘?

米っ娘たちのとりまとめ役、太夫元六米の一角。

詳細不明な上州を除き、雄町よりも古い時代の品種です。

亀の尾と共に世話役を務めています。
歯に衣着せぬ物言いで合理的判断、事実をずばずば言ってのけます。
実利主義で、何よりも成果が一番。
感情の変化はほとんど無いように見えますが、本人曰く感情を表に出すことに意味を見いだせないからだそうです。


概要

後代となる山形県の『森多早生』が非常に有名ですが、その元となったのはこの石川県発祥の『大場』と言う品種です。
とは言え古すぎてちょっと情報が少ないですね…

大正時代において
『大場』系品種群は新潟県(『新大場』)、富山県(『大場』)、石川県(『大場石2,5,7号』『大正大場』)、福井県(『福井大場1号』『変大場』)の北陸四県を中心に普及しており、一部京都府(『大場』)や兵庫県(『改良大場』)でも奨励品種に採用されています。
東北では純系後代の『東郷』系品種群が中心に普及したようであり、宮城県(『東郷一号』)、福島県(『東郷21号』)、山形県(『東郷』)の南東北で奨励品種に採用されていました。

ジーンバンクに残る『大場』は、稈長が90cm後半から100cm程度で長い部類に入り、いもち病抵抗性、耐倒伏性は非常に弱く、穂発芽もしやすい品種であったようです。
脱粒性だけは「難」となっていて、機械刈り取りの際の苦労は少なそうです。
同じくジーンバンクの『森多早生』は、稈長が90cm程度に短くなっていますが、その他の特性はさほど変わっていないようです。

ちなみにこの『大場』…の後代『森多早生』には、『コシヒカリ』全国普及に役立ったちょっとした特性があります。
『コシヒカリ』は『日本晴』よりもわずかに感光性が鈍いために、出穂が早くなっています。
それに関連している一部に【Hd16】という、光に反応する遺伝子があるのですが、日本晴型のHd16が短日になるまで出穂を遅らせるのに対して、『コシヒカリ』のHd16は光に対する反応が鈍く、比較的長日条件でも出穂が早くなっています。
この「反応の鈍いHd16」が発現したのが『森多早生』からとされており、父親の『農林1号』を通して『コシヒカリ』まで引き継がれているそうです。
ちなみに大正時代に東北地方には『大場』系ではなく『東郷』系の品種群が普及しているところを見ると、『東郷2号』の時点ですでにこの特性があった…のかもしれません。
東北地方まで『コシヒカリ』が普及出来た要因として、こんなちょっとしたことですが、大きく影響しているんですね。

また、『森多早生』に関してはもう一つの特徴「高蛋白質」があります。
『コシヒカリ』の姉妹品種(【『農林22号』×『農林1号』】交配後代)『ホウネンワセ』『越路早生』『ハツニシキ』『ヤマセニシキ』の5品種の内、『ホウネンワセ』『越路早生』『ハツニシキ』の3品種は蛋白質含量が高くなっています。
これは親の『農林1号』、そしてさらにその親の『森多早生』から受け継がれているものとされています。
食味に関しては蛋白質含量は低い方が良いとされている平成~令和現代ですが、蛋白質源として米が重要視されるような時代が来た際には、重要な遺伝資源となることが期待されます。


『コシヒカリ』との関連性


『コシヒカリ』につながる系譜としては、『コシヒカリ』の父親『農林1号』のさらに母親『森多早生』まで遡ります。
この『コシヒカリ』の父方の祖母に当たる『森多早生』は『東郷2号』の変異株を選出したもので、その『東郷2号』は『大場』の変異株を選出したものとなっています。



『森早生』じゃないです『森多早生』です

後代品種『森早生』という誤字がいまだに多いようです。
山形県から秋田県に渡る際に誤表記され、そのまま陸羽支場(国)の記録でも『森』になってしまったために結構な割合で誤表記されたままのものが目立ちます。

さらに、森屋正助氏(当時22歳)が選抜・育成したにもかかわらず「そんな若い息子がこんなすごい品種を育成できるわけがない」と、町役場の係員が育成者を父である森屋巳之助氏にしてしまったという…これもかなり広まっていますが、育成者は森屋正助氏です。

『森多早生』の品種名は森屋正助「森」と、森屋家の屋号である多郎左エ門「多」から。
ここからもわかるように、森「田」の訳がないですね


『大場』の後代は『森多早生』です。
よろしくお願いします。


育種経過

石川県では(大正時代目線で)古くより『巾着』という水稲品種が栽培されていました。
病気、害虫、風害、水害に強いとされ、山間部に適した品種として『白早生』や『石白』と言った品種のもとにもなっています。
純系淘汰で長芒・強稈・多収の『巾着石1号』と短芒・品質良好の『巾着石2号』が育成され、大正期に奨励品種となり普及しています。

時間はまた戻って
文久元年(1861年)9月、石川県河北郡大場村の西川長右衛門氏がそんな『巾着』の中から異株を発見し選出、栽培。のちにこの品種を辻川理兵衛氏が『大場』と命名しました。

石川県農事試験場もこの『大場』には注目し、施肥量が在来の他品種に比較して少なくて済み、石川県の気候に合った品質の良い米と評価されています。
純系淘汰品種も育成され、大正7年に『大場石2号』、大正9年に『大場石5号』、大正10年に『大場石7号』が生まれ、原種(現代で言う奨励品種)に設定されています。

そしてこの『大場』から明治34年(1901年)に『東郷2号』が選出され
大正2年(1913年)、山形県東田川郡余目村(現:庄内町余目)の森屋正助翁(のち多郎左エ門)により、名品種『森多早生』が生まれることになります。



系譜図

『大場』の選抜種が『東郷2号』。
その『東郷2号』から選抜されたのが『森多早生』です。
『大場』系統図


参考文献(敬称略)


◯森多早生と善石早生:菅洋



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