2020年5月24日日曜日

【酒米】辨慶1045号~辨慶(伊豫辨慶1号)~ 【特徴・育成経過・系譜図・各種情報】

純系名
 『辨慶1045号』(『辨慶〇一〇四五号』の表記も随所に見られる)
品種名
 『辨慶(伊予辨慶1号)
育成年
 『大正6年(1917年) 愛媛県農事試験場』
交配組合せ
 『大分県の辨慶より純系淘汰』
主要生産地
 『兵庫県』※平成~現代
分類
 『酒造好適米』※平成~現代

吾か?『辨慶』と呼ばれている



どんな娘?

現役引退からかなりの休養期間を経て平成の世に現役復帰。
ただしあくまでも彼女は伊豫辨慶1号(愛媛・兵庫・鳥取県普及)であり、辨慶2号(山口県)や辨慶13号(大分県)、在来種の辨慶は含みません。
この点、抽象的な在来種の具現化した太夫元六米達とは違い、滋賀渡船2号達や強力2号に近いものです。


昔は弁慶を模した格好(頭巾、袈裟、袴等)をしていましたが、現代の米の基準に基づき水着姿に着替え済みです。(ただし頭巾だけは手放さなかった様子。)

一人称は「吾」。
男性口調でぶっきらぼうな話し方をするのに加えて、性格がかなり強情で気難しいことから、基本的に他人との交流はかなり苦手。
同世代・同境遇の滋賀渡船姉妹と新山田穂1号らとは話をしているようですが、気の合う相手となるとかなり少ない様子です。(今のところ強力2号ぐらいでしょうか?)




概要

世代としては『神力』や『愛国』と同じ世代、大正から昭和初期にかけて栽培されていた品種です。
おかげで情報はかなり少なく、諸々怪しい情報も多いようです。(しかも兵庫県が事実誤認をしているというおまけ付き)

有名どころでは、兵庫県で大正13年(1924年)から昭和30年(1955年)まで『辨慶』の名で奨励品種に指定されていました。
酒造適性の高さから、酒蔵に歓迎されていたそうですが、他品種の例に漏れず、時代の変化と共に作付は減り、その姿を消しました。
平成25年(2010年)から、兵庫県内で酒造用として用いられた『辨慶』復刻の取り組みが始まり、それ以後酒造好適米として銘柄設定されています。


「兵庫県が愛媛県から取り寄せた「弁慶1045」から選抜・育成」という触れ込みで広まっていることから「兵庫県が育成した品種」との認識が多いようですが、これは兵庫県の認識間違いです。
実際は「愛媛県が育成した『伊豫辨慶1号』を品種比較試験し、優秀だったため兵庫県が採用した」と言うのが正しいようです。(詳細は辨慶とは?復刻された幻の酒米(?)の”追記”を参照)


そんな『辨慶』はそもそも山口県の在来種(少なくとも明治41年以前より栽培)でした。
その山口県から大分県へと渡り、そして大分県から愛媛県へと、そして最後にたどり着いたのが兵庫県(と鳥取県)でした。

山口県では『辨慶2号』が、大分県では『辨慶13号』が、愛媛県では『伊豫辨慶1号』が、そして兵庫県と鳥取県では『伊豫辨慶1号』が名前を変えてそれぞれ『辨慶』、『辨慶1号』として、『辨慶(在来)』から育成された純系淘汰の子品種達が大正期以降は普及していました。

夫々の県の評価を見るに、「辨慶系統品種」の共通する特徴として
「1.稈(茎)が非常に強く、倒伏しにくい」「2.いもち病への抵抗性あり」「3.大粒で酒造用に適している」の三つが挙げられそうです。

在来の『辨慶』を対照としている県(山口県や兵庫県)では、収量の増加と、より玄米の品質の良い系統を選抜し、一定の評価を受けていますが、『亀治』を対照品種にしている鳥取県では「品質があまりよくない」との評価を受けているので、とびぬけて品質が良い品種ではなかったようです。


大正15年(1926年)当時で、兵庫県内での『辨慶』普及面積は1,598.2ha。
「大粒種で酒造用にも用いられている」との表記はありますが、兵庫県全体の水田面積は約10万7千haですから、この時点では原種指定間近ということもあるのでしょうが、ネットで言われている「兵庫県で代表的な酒造好適米だった」には少し寂しい面積ですね。
これが昭和12年(1937年)になると一気にその普及面積は12,157haまで増加。
作付面積1位の『朝日(系品種群)』に次ぐ第2位の作付面積で、兵庫県約9万3千haの水田の13%に及んでいます。

ちなみに同じく愛媛県から大正9年(1920年)に取り寄せ・品種比較試験、大正13年(1924年)に原種指定(『辨慶1号』)の鳥取県では大正15年(1926年)時点で924.13ha普及…
鳥取県全体で約3万3千haですから、割合として兵庫県よりは普及していたようです。
とは言えこれも初期だけ。
昭和12年(1937年)には統計から姿を消しています。

故郷の山口県では大正15年に『辨慶2号』が5,174.9ha、それが昭和12年に8,503ha(水田面積の12%・県内第3位)普及。
大分県では大正15年時点で『辨慶13号』が5,707.0ha普及していたのが、昭和12年に1,950ha(水田面積の4%・県内第3位)と減少傾向。
そして『伊豫辨慶1号』生みの親の愛媛県では大正15年に757.0haの作付けがありましたが、昭和12年には既に統計に登場するほどの作付は無くなってしまったようです。


その始まりに至っては「山口県の在来種」程度しか情報が無く、今やその命名の由来を知る事は不可能に近いです。
ただ、今でこそ「大粒で心白があり、山田錦と同等だった!」とばかり喧伝されていますが、当時のどの県でも強調されているのはやはり耐倒伏性の高さです。
「稈が強く倒れない」稲の姿が、「弁慶の立ち往生」を思わせることから…
名前の由来に関しては、こんな想像は出来ますね。(あくまでも想像)

『牛若』という名前の品種も大正当時ありましたが、果たして因縁があるのやらないのやら・・・謎です。

兵庫県の1950年における普通肥料栽培の成績によれば『辨慶』は
稈の細太は「太」、剛柔は「剛」。
芒はなく、もみの色も「白」と普通です。
玄米千粒重は26.8gで心白は多く、腹白は少なかったようです。

現代の『辨慶』~現代における純系淘汰種~


平成25年(2013年)に兵庫県姫路市夢前町で「夢前ゆめ街道づくり実行委員会」が立ち上がり、町おこしの一環として、既に栽培の途絶えていた『辨慶』(多分当人たちはこれが正確に何のことを言っているか認識していなかったと思われますが…)の復活を企図。
兵庫県立農林水産技術総合センターから700gの『辨慶』の種子を譲渡され、夢前町の水田で栽培を行います。

同町の壺坂酒造が当時の酒造記録や、蔵の壁などに生息していた「蔵付き酵母」を使用するなどして、復刻された『辨慶』を使用した日本酒を販売しているようです。

他、酒米『辨慶』使用を謳った日本酒は他の蔵からも出ているようです。


兵庫県が保存していたのはおそらく兵庫県で普及していた純系淘汰種の『辨慶』でしょうから、前・後述している通りこれは『伊豫辨慶1号』と言えるでしょう。
ただしこういう復刻話、当人たちや記事を書いている人が状況をよくわからずに書いている(『短稈渡船』がいい例)ことも多いので、本当に兵庫県が保存していた系統かと言うのも正直怪しいデス。

ただ、『辨慶(在来)』と、兵庫県の指定した名称『辨慶』が同じなので非常に紛らわしいですが、抽象的で概念に近い『辨慶(在来)』は既に存在しないと考えるのが妥当ではないでしょうか。



ここで「たった700g”だけ”残っていた」としている説明や、復刻米系では毎回このような説明があるので、「奇跡的に少しだけ残っていた種を発見したのか!」と思っている人も多いのかもしれませんが
研究機関の「保存している」というのは「数年おきに種をまいて採種して、を繰り返す」ことなので、瓶に詰めてどこかの棚にずっとしまってあるようなものではありません。
種子の提供依頼があれば、次回の採種に影響の出ない範囲で、保存している種子を分譲しているのです。
なのでそもそも「たった○○gだけ残っていた。そしてそれを譲ってもらった」と言うことがあり得ません。
規定されている保存種子量が多ければ数百グラムの譲渡も出来ますし、少なければ数十グラム程度しか譲渡できない場合もあるわけですね。
だからこれも「兵庫県が系統保存している中から700g分の種子を譲渡した」というだけです。
夢前町に譲った後も、引き続き兵庫県で保存は続けられているはずです(ジーンバンクに譲渡するなどして県での保存が途絶える場合もあり)。



育種経過

前述していますが、世間一般で広まっている
「『辨慶』は大正8~13年ごろに兵庫県農事試験場(但馬分場)で育成された品種」というのは、おそらく誤りです。
兵庫県公式なので取り上げている書籍も多いですが、これは「現在の兵庫県の認識が間違っている」ということになりますね。

山口県では在来種として県内で広く栽培されていた『辨慶』について、明治41年(1908年)から試験するなどして原種(奨励品種)にも採用しています。
そんな『辨慶』の故郷山口県から、大分県が明治41年(1908年)に種子を取り寄せ試験を行います。
大分県では独自にここから『辨慶13号』を育成、普及に移しています(大正5年~)。

時代は流れて大正4年(1915年)、大分県農事調習所から愛媛県が『辨慶』を取り寄せて、ここから純系淘汰法による新品種の育成に取り組みます。
第1回選抜時に1,100個体の中から選ばれた『弁慶1045号』(原表記ママ)について、その後も2回の選抜(形態調査、収量調査も含む)が実施されます。
そして大正6年(1917年)、大分県から取り寄せた『辨慶』に比較して品質も良く、いもち病耐性、かなりの多肥に耐える多収の品種と認められます。
そして『弁慶1045号』は『伊豫辨慶1号』と命名され、愛媛県で栽培されていた『伊豫雄町1号』や『竹成』の中山間地での作付けに代わるべき品種として原種(奨励品種)に指定されます。

そんな愛媛県での『伊豫辨慶1号』の育成から3年後、大正9年(1920年)に兵庫県が愛媛県から『辨慶』について『純系一〇四五号』の配布を受けたものと思われます。(また後年の記録から推測して、『辨慶1045号』配布の前年に『辨慶404号』の配布も受けたものと思われます。)

兵庫県ではこの『純系一〇四五号』もとい『辨慶1045号』(と『辨慶404号』)に関して、品種比較試験を行います。

大正8年度の業務功程はまだ未確認です。
大正9年(1920年)は本場での品種比較試験本試験に『辨慶1045号』の記載はありませんが、『辨慶404号』が実施。(表記上は『神力四〇四』ですが、愛媛県原産の表記からおそらく『辨慶404』ではないかと推測)
そして但馬分場では「本場から取り寄せた」『辨慶一〇四五』(原表記まま)について品種比較試験の予備試験が実施されています
大正10年(1921年)、本場の品種比較試験から『辨慶』の名前は消えています。
但馬分場は未確認。

大正11年度は未確認ですが、翌大正12年(1923年)の本場における水稲品種比較試験の本試験に『辨慶一〇四五』(原表記まま)が供試2年目とされているので、この年から本場の品種比較試験に供試されたものと思われます。

そしてなぜか大正12年の「水稲純系淘汰」の「第三年目以後収量調査」にも『辨慶一〇四五號』(原表記まま)の記載があり、この年が試験初年度とされています。
ただし「分型年次」(純系淘汰試験開始後何代目であるかを示していると思われる)に記載が無いので、純系淘汰育成系統の比較対照としての記載のようです。
地方委託試験も実施されており津名郡、揖保郡、有馬郡には『辨慶一〇四五』(原表記まま)が、多可郡には『辨慶』(原表記まま)が供試されています。
多可郡の”辨慶”が何なのかは不明ですが、おそらく『1045号』でしょう。
同じ12年度、但馬分場では品種比較試験の本試験に『辨慶一〇四五』『辨慶四〇四』(共に原表記まま)が供試されています。

そして耐倒伏性の強さ、そしていもち病抵抗性であることから大正13年(1924年)に『辨慶』として原種(奨励品種)指定され、配布が開始されます。
この年から明石本場の品種比較試験でも地方委託試験でも『辨慶』(原表記まま)しか登場しなくなっています。
ただし「水稲の品種肥料用量試験」では『辨慶一〇四五』(原表記まま)になっています。
そして但馬分場の品種比較試験では『辨慶四〇四號』『同(一〇四五號)』(共に原表記まま)、水稲の品種肥料用量試験では『辨慶一〇四五號』(原表記まま)が記載されています。
この但馬分場の比較試験において『同(一〇四五號)』(原表記まま)の備考欄に(原種)と記載があるので、『辨慶1045号』が原種指定された『辨慶』であるとみて良いでしょう。



前述していますが、改めて根拠を踏まえて

1.兵庫県に渡った時点で『伊豫辨慶1号』の育成から3年も経過していること
2.『”純系”一〇四五号』とされており、すでに純系淘汰された系統であると思われること
3.品種比較試験であり、純系淘汰を行ったとは記載されていないこと

以上のことから、ネット一般(そして兵庫県公式)で言われている「兵庫県が純系淘汰で育成した」誤り
「愛媛県育成の『伊豫辨慶1号』を兵庫県が試験した結果優秀だったので名前を変えて採用した」
これが正確な情報でしょう。
おそらく兵庫県(現代)では「品種比較試験」を「選抜・淘汰の育種の一種」としてとらえての「純系淘汰・育成した」という解釈だと思われますが、業務功程を見る限り『辨慶1045號』を純系淘汰した記録はなく、あくまでも『辨慶1045號』と言う品種として試験され、優良として原種指定を受けています。(表記が『辨慶一〇四五』『辨慶一〇四五號』『辨慶』とバラバラなので紛らわしいですが、『山田錦』の育成時の系統名称もバラバラだったように、この時代の品種名の扱いは相当いい加減だったと言えるかもしれません。)
愛媛県側の記載と合わせて考えると、愛媛県側で既に品種としての育成と固定はほぼ終わっていたと見るのが自然でしょう。
それを多少選抜したからと言って「兵庫県が育成した」はさすがに過言かと思われます。
これを是とすると、新潟県の某さんが主張した「『コシヒカリ』は新潟県が育成した!」も正しいということに…とはいえ時代もかなり違うので簡単にひとくくりにはできませんが。


こうして誕生して、兵庫県で『辨慶』として普及した『伊豫辨慶1号』は、昭和にかけて兵庫県内第2位の作付面積まで増えているのが確認できますが、その後は交配後代(子)品種も現在のところ発見できず、『辨慶』の血筋は昭和中期にかけて本当に姿を消していったようです。
強稈や耐肥性であることから育種材料としては十分な素質を持っているように思えるのですが…なにかしら反りが合わなかったのでしょうか?


※各県での詳細な情報は以下、関連コンテンツにて


系譜図
辨慶 酒米 系譜図
辨慶1045号『辨慶』 系譜図


参考文献

〇「百年前の酒米で日本酒復刻へ 姫路の新特産品に」:HYOGO ODEKAKE PLUS+
〇酒米品種「山田錦」の育成経過と母本品種「山田穂」、「短稈渡船」の来歴:兵庫農技総セ研報
〇昭和四年三月米麦原種一覧表:兵庫県立農事試験場
〇兵庫県立農事試験場業務功程大正9年~14年
〇水稲及陸稲耕種要項(昭和11年):大日本農会

関連コンテンツ


辨慶とは?復刻された幻の酒米(?)












4 件のコメント:

  1. 辨慶も昔の品種だからこそ解らない事が沢山あるんですね...最近ふと思ったのですが
     「古い品種は情報や育成年が曖昧なところがある」つまりそれ程情報を外部にはもらしたくない理由などがあったのではないか...と思っておりました。 昔からインターネットという物が存在していれば多くの謎が解けたかもしれませんね(その情報が現在まで受け継がれていたとするならばですが...)

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    1. 「昔の品種の情報が少ない」というのは、基本昔の人が「他人に伝えようとして」記録を残していないというのが大きいと思います
      食うにも困り、税にも困るような当時の稲を育てる現場側からすれば、名前の由来やら特性がどうこうよりも、「今より作りやすくてたくさんとれる品種を手に入れる」ことが至上命題だったでしょうし
      公的機関にしても発足したばかりで、”品種登録”の概念も無いでしょうから、識別性や固定度についてそもそも気に掛ける必要が無かったのかも知れません。
      少しでも収量が多く、育てやすい系統を見いだせばそれを”品種”として普及する、それが至上命題だったでしょう。

      そして用語や記録方法が何も統一されていないので記録そのものが正直お粗末なのと、読み解くにも非常に労力を要しますね…

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    2. 成程...そうゆう事でしたか。確かに記録方法が全て同等のものではない事から、解読するのは随分と骨が折れる作業になりますね...。
       私事になってしまいますが先日雪若丸を購入し、早速試食してみました。感想は一言








      よ き か な~

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    3. 日常使いに『はえぬき』!
      とっておきの『つや姫』!
      ガッツリ食べたいときに『雪若丸』!

      これからもよろしくお願いします(*´ω`*)

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